1章
『痛覚』
それは人類が、いや生物すべてが初めて味わう感覚。
その感覚を避けるために生活を、文明を、歴史を作り上げたと言っても過言ではない。
そして痛みという生命の危険信号があるから、それを緩和するために食を、住居を、病を克服して、人類は進化し発展してきたのだと心底、今の私は思う。
私の名前は由衣。私はどこにでもいる、いわゆる普通のOLだ。
この間は散々な目に遭った。それは治験のアルバイトのために痛覚モニターを1か月間付け続けて、軽い躁鬱病になったことだ。それから2週間、私は後遺症の頭痛に悩まされた。
生体モニターによると躁鬱傾向+4という数値を叩きだし、頭痛に悩まされた私は、近所の内科に通院していた。
40代の男性の内科の先生の対応は完璧だった。
私は全く不快に感じることなく、流れるような診察だった。
診察終了後の内科の先生の「また2週間後に会いましょうね!」の白い歯が輝く笑顔に、不覚にもキュンとしてしまったくらいだ。
そして病院を出た真昼間の道路上で処方された頭痛薬の袋を胸の前で抱きしめ、「普通じゃないのは、良いのかもしれない…。フフフ…。」と我ながら気持ちが悪いほどに内心で感激していた。
だが、頭痛持ちになってから2週間後、結果的には私はケロッと完治した。
私がどうやって治ったのか。答えは簡単、普通の生活をしたのだ。
朝に決まった時間に起きてご飯を食べ、会社に出勤して、友達とたまに何の成果も無い合コンに行く。
ただそれだけ。前の生活に戻しただけで、みるみる私の身体は回復して普通の私に逆戻りしたのだ。
そうすると頭痛が全くなくなり、ご飯は美味しいし、灰色の世界が色彩溢れた世界に戻り、人生が素晴らしいものだと身体の中から溢れ出てきたのだ。体重も平均体重の普通に戻ったのだ。
私はニコニコ顔で近所の内科の先生に診療予約に行ったら、前に行った歯医者さんと同じ対応をされた。
「…しょ、紹介状を書きますね。」と小さくなりながら、震えた声の内科の先生に対して、私は毅然とした態度で「大丈夫です。だって私は普通ですもの。」と言い放った。
スキップしながら内科病院を出ると、とても気分が清々しく感じた。
病院なんて、普通に行く所じゃない。頭痛が無くなるなんて、なんて快適なのだろう。
普通は最高!
内科の通院を辞めたその日の夕方に、田辺先生から私の携帯電話に電話がかかってきた。
田辺先生は大学病院の…確か偉い先生で、痛覚モニターの治験のアルバイトを紹介してくれた先生だ。
(…多分また、普通に戻った私にモニターの治験のお誘いだ。マイナンバーカードの情報で私が普通に戻ったのを知ったのだ。田辺先生、私はもうコリゴリです。悪いけど、私、あなたから卒業します。)
と心に決め、私は直接話して断るのも面倒だったので、無視をする事に決めた。
それからの私は平穏そのものだった。
満員電車に揺られ、ムカつくハゲの上司に怒られ、同僚の婚約を妬んだり…。
人生なんて、不満だらけぐらいの方が丁度良いかもしれないが、同じことの繰り返しだ。
世間では、選挙車の雑音と街頭演説がとても騒がしい。会社からの帰り道、特に駅前での人だかりと、よく分からない薄っぺらい言葉を並べている現在無職のオジさん達の声は、とても私を不快にさせる。
政治家なんて選挙で決めても、誰がなっても変わらないのだから、どうでも良い。
私はそれよりも、帰り道のスーパーでの売れ残りの総菜があるかの方が大事なのだ。
だがそんな私に変化が訪れた。
半年が過ぎて、治験のアルバイトの貯金が底を尽きたのだ。
憧れのブランド物のバッグを買い、週末にお酒を飲みに行き、ふと気が付いたら、あれだけあったお金が無くなっていたのだ。
「…治験のアルバイト、美味しいバイトだったなー。」
夕食のスーパーの値引きの焼き魚を突っつきながら夕食を食べていた私は、軽いため息をつきながら思わず声に出した。焼き魚は美味しいけど、お刺身食べたいな。
その時、そんな私の携帯電話が鳴った。
…なんと田辺先生だ。これはラッキー。渡りに船?ってやつだ。
私はとっさに電話に出た。
「もしもし、お久しぶりです。田辺先生ですか?」
一瞬驚いた田辺先生は、すぐにいつもの抑揚の無い明るい声で話した。
「由衣さん!やっと電話に出てくれましたね。全然通じなかったので、嫌われたのかと思いましたよ。」
…確かに、これまではしつこくて嫌いだったけど、今は一時的で金銭的に好きですよ!
「忙しくて、出れなかったんですよ。すいませんでした。それで、モニターの治験のバイトの話ですよね?私、普通に戻ったのですから。」
私が意気揚々と告げると、田辺先生は少しの沈黙の後、少しトーンを下げて話し出した。
「…え?治験?いえいえ、そんな話じゃないですよ。」
「…ええっ。」
私は明らかに落胆した。
…もしかして私、田辺先生に個人的に好かれてるの?残念だけど、田辺さん。お金持ちそうだけど、あなたは私のタイプじゃないの。
「じゃあ、切りますね。」
「ちょっと待って下さい!由衣さん!アルバイトなんて、はした金じゃないですよ!普通のあなたが大金持ちになれるチャンスです!」
田辺先生の急な焦った声に、私はビックリした。
次の日、私は田辺先生に指定の時間に呼び出され、大学病院のいつもの特別応接室に居た。
そこには田辺先生だけでなく、何かテレビで見たことのあるような、パリッとした高級スーツを着たお年寄りが3人も座っていた。
心なしか小さくなっている田辺先生は、偉そうにふんぞり返って座っている3人の老人に対して、私を少し小声で紹介した。
「こちらが、神に選ばれた普通、歩く偏差値50こと、由衣さんです。」
私はいつの間にか異名がつけられている事に困惑したが、何だか馬鹿にされている感じがして、不貞腐れながら投げやりに挨拶した。
「えっと、普通の由衣です。よろしくお願いします。」
「君が噂の由衣さんか。私は自民第一党の政調会長、今泉でごわす。」
「同じく、自民第一党の張本派筆頭、坂田です!」
「…モゴモゴ、自民第一党の張本…。…モゴモゴ。」
最後のお爺ちゃんは、何を言ってるか、さっぱり分からなかった。
へぇ、皆さん政治家の人なんだ。見たことあるような、無い様な…。
私がキョトンとしてとりあえず出されたお茶を飲んでいると、太った今泉さんが大股開きのまま、ギョロ目で眉をひそめながら重々しく口を開いた。
「単刀直入に言おう。由衣さん、君に国政に出てほしいのでごわす。」
私は飲みかけていた緑茶を吹き出しそうになった。