第1章
陽一は、自分の頭の中が豆腐で出来ているんじゃないか、と本気で悩んでいた。
昨日の夕食はなんだったっけ。
サークルの集まりはいつだっけ。
なんで大事な約束を忘れちゃうんだろう。些細なことならまだいい。問題は、人生において致命的になりかねないことまで、すっぽりと忘れてしまうことだ。
特にひどかったのは、先日のゼミの発表だった。指導教授である加藤教授は、いつも温厚で、学生の自主性を重んじるタイプだ。陽一は教授から「次回の発表で、君のテーマについて自由にプレゼンしてみてくれ。」と言われた。陽一は喜んで承諾した。
ところが、発表当日。教授はいつものようにニコニコしながら「じゃあ陽一君、今日の発表、期待してるよ。」と声をかけてきたが、陽一は何も準備していなかった。ゼミの仲間たちから注がれる視線が、針のように突き刺さる。彼はその場で謝罪し、発表は翌週に延期となったが、教授の顔に浮かんだわずかな失望の色を、陽一は忘れられずにいた。いや、正確には、その失望の表情だけが、陽一の薄い記憶に深く刻み込まれてしまった。
もう一つの大問題は、お酒だ。友達と飲みに行くと、陽一はすぐに記憶をなくす。そして翌朝、目が覚めると、なぜか財布の中身が空になっていることが多い。
友達はみんな優しいし、陽一も彼らを信頼している。だとしても、何度も繰り返されるこの現象は、陽一の心に暗い影を落としていた。もしや、みんなが僕の財布からお金を取ってるとか……。いや、そんなことは流石にしないだろう。
「最近、とくに忘れやすい。僕の頭の中、どうにかならないかな……。」
講義の合間、カフェで一人、陽一は深くため息をついた。
隣の席では、同級生が楽しそうにグループワークをしている。彼らが持つノートパソコンやタブレットには、びっしりと講義内容がメモされていた。そのうちの一人が、ノートパソコンにマイクを付け、音声から文字変換していた。
「今はあんなことが出来るんだ。凄く便利そうだな。」
その光景を見ながらでも、頭の中に霧がかかっているようだ。必死に記憶をたぐり寄せても、指の間をすり抜ける砂のように、何も掴めない感覚になる。
その日の夜、陽一は部屋でぼんやりと過ごしていた。
部屋は散らかっていて、読みかけの本や着古した服が床に散乱している。机の上には、昨日友達からもらった、型落ちのスマートフォンが置かれていた。最新機種に買い替えた彼が、処分に困って陽一にくれたものだった。
「ああ、そういえば、貰ったっけ。また忘れてた。これ、どうしようかな……。」
使い道のないスマホを眺めていると、昼間に見た音声文字変換を思い出した。スマホ、音声変換、パソコン。点と点が繋がり、陽一の頭の中で弾けた。
「そうだ!録音だ!」
陽一は次の日に駅前の携帯ショップで新しい契約をして自宅に急いで帰り、すぐに試すことにした。スマホで自分の周りの音を自宅のパソコンに転送、パソコン内で聞こえる音声を自動で文字に起こすアプリケーションを思いついたのだ。最初はうまくいかなかった。音質が悪すぎて、文字化けのオンパレード。何度も試行錯誤を繰り返し、ネット上のレビューサイトを読み漁り、ようやく使えるアプリケーションを組み合わせて、ついに完成した。
その翌日から陽一は講義中、常にスマホをポケットに忍ばせ、音を転送するようになった。
忘れない様に朝自宅を出るときに、スマホの通話ボタンを押しておき、大学の教授の講義や友達との会話などの、陽一の一日の始まりから終わりまでの音声を自宅のパソコンに転送する。
家に帰ってから、パソコンを開き、文字起こしされたテキストを読んでみる。そこには、講義の内容とその日の会話がほぼ完璧に言語化されていた。
「すごい、すごいぞ……。」
陽一は思わず声を漏らした。それからは、ノートを取る手間が省け、教授の言葉に集中できるようになった。
「あ、そうそう、期末試験はね、今回は講義で扱った範囲を広く出題するから、特に小テストでやったところをよく復習しておくように。」
教授が何気なく言ったその言葉も、陽一のポケットの中のスマホはしっかりと捉えていた。
この音声記録方法は、陽一の生活を劇的に変えた。
成績はみるみる上がり、陽一は「お前、最近真面目になったな。」と友達に言われるようになった。
そして、ある日。陽一は親友の拓也に呼び出された。
「悪いんだけど、今度の日曜、引っ越し手伝ってくれないか?」と拓也に言われ、陽一は二つ返事で承諾した。「もちろん、任せてくれ!」
いつもの様にその日に記録した内容を確認し、明日の朝に寝坊しない様に目覚まし時計をセットした。
日曜日。集合時間前に来た陽一を皆が驚いた。
「いつも遅刻したり、寝坊したりする陽一が時間通りに来るなんて、陽一、変わったね。」
手伝いに来ていた圭子をはじめ、拓也と皆が目を丸くして驚いていた。
陽一は記録があったおかげで約束を守る事ができ、友人の信頼を回復したことに安堵した。
そしてもう一つの大きな悩み、お酒を飲んだ時の財布空っぽ事件問題にも、この方法が解決の糸口になったのだ。
そして、いつものように友達と飲みに行った日。
「陽一、大丈夫かー?」
「あー、もう無理……」
意識が遠のく中、陽一は財布の中身を確認した。まだ中身はある。
翌朝、目を覚ますと、やはり財布の中身は空だった。陽一は絶望的な気持ちになったが、すぐに昨夜の録音データを確認した。
パソコンの画面に表示された文字起こしを読んでいく。そこには、楽しそうな雑談や、くだらない冗談、そして……。
「お隣さん、僕のお金あげます。楽しく飲んでください。」
「陽一、そうやってまた財布空っぽになるまで知らない誰かにあげるのはやめろよ。もう毎回だよな。」
「みんな、見てよ。陽一ったらお金を全部あげたら満足して、また寝ちゃったよ。」
「しょうがないな。俺たちが立て替えておいてやるか。」
「陽一な、こいつは本当にいい奴だけど、どうしようもない奴だな。」
陽一は、画面に釘付けになった。
彼らは、陽一のお財布からお金を抜いていたのではなく、逆に奇行をした陽一のためにお金を立て替えてくれていたのだ。
その優しい言葉の記録に、陽一の目頭が熱くなる。
「なんだ……そういうことだったのか」
胸のつかえが取れたような気がした。同時に、親友たちの優しさに改めて感動した。
陽一は、興奮を抑えきれずに呟いた。
「この方法は、すごいことだぞ……」
この方法を使えば、自分の記憶の空白を埋めることができる。
人間関係の誤解も、講義の聞き逃しも、もう怖くない。陽一は、世紀の大発見をしたかのように、高揚感に包まれていた。この使い古されたスマホは、陽一にとって、単なるガラクタではなかった。 それは陽一の人生を救う、今や最高のツールになったのだ。