第5章

「……辞めるだろうと思ったよ。今までの貴重な研究データはありがたく使わせてもらう。」

航平は、陽一の決意を聞いて、そうつぶやいた。その声は、驚きも、落胆も、怒りも含まれていない、ただ事実を述べるだけの、乾いたものだった。

陽一は、航平の無関心な態度に、かえって胸が締め付けられるような思いがした。この1ヶ月半、AIが導き出した「最適解」に沿って行動してきた自分の努力は、彼にとって、ただの実験データに過ぎなかったのだろうか。

「今日のバイト代も含めておいた。私からのご祝儀だ。昨日の解析はしないよ。君は自分の手に入れたいものを手に入れた。おめでとう、じゃあな。」

航平は陽一にお金の入った封筒を渡しながらそう言うと、再びパソコンの画面に向き直った。陽一は、その背中に向かって、何かを話したかった。AIに頼って手に入れたものは、結局、何だったのか。圭子への罪悪感だけが、陽一の心に残されていた。

その時、研究室の扉が静かに開いた。航平の妻、真理がお弁当の入った袋を持って入ってきたのだ。陽一が初めて真理を見たのは、大学のパンフレットだった。研究室のマドンナとして紹介されていた彼女は、実物の方が写真よりもずっと美しく、とても優しげな雰囲気をまとっていた。

「航平君、お弁当忘れたでしょ。」

真理が航平にそう声をかけると、航平の表情が、一瞬で柔らかいものに変わった。その変化はまるで別人のようだったので、陽一はただただびっくりした。

陽一は、真理に頭を下げ、そのまま無言で研究室を出た。閉じた研究室ドアの前で、陽一はまだ心の中がモヤモヤしていた。廊下を歩き始めた時に、ある疑問が生まれた。

「真理さんには、航平さんの真実を伝える必要があるのではないだろうか。」

陽一は、研究室を出た真理の背中を追いかけた。

「あの!航平さんの奥さんの真理さんですよね?ちょっとお話、聞かせてもらえませんか。」

真理は驚いた顔で振り返ったが、さっき研究室で挨拶してきた学生だと理解すると、ここから移動して大学の外の庭のベンチで話をすることを提案した。

ベンチに二人で腰かけると、陽一は堰を切ったように話し始めた。陽一が、航平の研究室のバイトをしていたこと、そして航平が「この研究のおかげで、愛する人を手に入れた。」と話したことを一気に打ち明けると、しばしの沈黙の後、真理はふっと笑った。

「……ふふ、そんなこと、とっくに知ってるわ。あなた、航平がしている研究を知ってたのね。」

陽一は、真理が航平の研究について知っていたことに驚きながら、さらに問いかけた。

「学生時代、航平さんは、突然態度を変えたりしましたか?その時、航平さんのことを好きになった理由を、聞いてもいいですか?」

真理は、陽一の質問に、少し考えるように首を傾げた。

「そうね……彼の研究については、付き合う前から少しだけ聞いていたわ。でも、私は最初から、彼のことが気になっていたの。」

陽一は、その言葉に思わず耳を疑った。航平はAIが導き出した最適解に従って、真理を振り向かせた、と言っていたのに。

「彼はすごく不器用で、私から話しかけても目を合わせてくれないし、いつも無表情で。でも、ある時を境に一生懸命に話そうとしているのが伝わってきて、それが可愛かったの。」

真理は、学生時代の航平を思い出すように、懐かしそうに微笑んだ。

「そう、ある日、彼が急に自信を持ったみたいで、積極的に話しかけてくれるようになったのよ。研究の話を、すごく楽しそうに、熱っぽく語ってくれて。その時の彼は、本当に素敵だったわ。」

陽一は、真理の言葉に、胸がざわつくのを感じた。航平が態度を変えたのは、AIが導き出した「最適解」に従ったからだ。しかし、真理は、その変化を喜び、それを受け入れていた。

「でも、それはAIの……。」

陽一が言いかけた言葉を、真理は優しく遮った。

「そのことも私は実は知ってたわ。彼はね、不器用だけど、優しい人なの。それは、最初に一目会った時からずっと同じで、結婚した今でも変わらないわ。」

陽一は、あっけにとられた。航平がAIに頼ったのは、自分の不器用さを乗り越えるためだったのかもしれない。しかし真理は、その不器用さを含めて、彼を愛していたのだ。

「じゃあ……AIとか、最適解なんて、関係ないんだ……。」

陽一がそうつぶやくと、真理はフフッと笑った。

「あら、勉強不足ね、学生さん。実は関係なくは無いわ。私たちの脳は、高性能の電算機能の集合体なのよ。私の大学時代の専門にしていた研究は、人間の脳の電子シナプスの可視化よ。AIも、その電算機能の一部を模倣したに過ぎない。でも、ね。」

真理は、陽一の目をまっすぐに見つめた。

「今のところ、その最適解の最強は、女の勘ってやつ。」

真理は、いたずらっぽく微笑んだ。

陽一は、真理に丁寧にお礼を告げて別れた。

真理との会話は、全てを一瞬で吹き飛ばしてくれた。AIが導き出した「最適解」は、不器用な航平を助けるためのツールだった。そして、真理は、そのツールを介して見えた航平の本当の姿を、最初から知っていたのだ。

「女の勘……か。」

陽一は、空を見上げた。彼の心は、まるで長年の曇りが晴れたかのように、すっきりと軽やかだった。

陽一は圭子との記憶は全て覚えていた。本当に大事なことは絶対に忘れないのだ。陽一の悩みは、忘れてしまうことではなく、最初から覚える気が無い事を陽一は今、初めて理解したのだ。そしてこれからは、記録やAIに頼るのではなく、自分の力で本気で人と向き合うことを陽一は決意した。

「正直に話して、謝って、圭子との関係をもう一度、一から築き直したい。」

陽一は胸に手を当てそう思い、それから圭子と待ち合わせをしているカフェへと急いで向かった。 陽一は、新たな陽一の人生を歩み始めたのだ。

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