第1章
インドネシアの安宿は、湿気とスパイスの匂いが混じり合い、どこか怠惰な空気に満ちていた。天井の扇風機が、ギーギーと不規則な音を立てて回る。ワタルは、安物のプラスチックの椅子に腰掛け、慣れた手つきでノートPCを開いた。
キーボードを叩く指が踊る。画面にはいくつものグラフが乱舞し、赤と緑の数字が目まぐるしく点滅していた。今日の取引は、順調に利益を出している。わずか数分の間に、日本円で数十万円が彼のデジタルな口座に加算された。それは、現地の人間が数ヶ月働いても手に入らない金額だった。
ワタルは35歳。この生活を始めてから、もう5年になる。
「自由」という名の船に乗って、世界中を漂流する。それが、ワタルの生き方だった。
東京の銀行員として働いていた頃は、スーツに身を包み、満員電車に揺られ、定型化された毎日を繰り返していた。銀行内の人間関係、上司の顔色を伺う日々、そして週末には決まった顔ぶれと飲みに出かける。それは、「ワタル」という人間を、誰もが知るありふれた存在へと固定していく鎖のようだった。
ある日、彼は全てを捨てた。誰にも縛られない人生。どこにも属さない自分。それが、ワタルが何よりも渇望するものだった。最初から投資の才能があったわけではない。来る日も来る日も、チャートとにらめっこし、経済のニュースを読み漁った。寝る間を惜しみ、人との付き合いを断ち、ただひたすらに自分のスキルを磨き続けた。
結果、彼は成功した。
今や、スマホとノートPCさえあれば、どこにいようと生きていける。国境も、時間も、彼を縛るものは何もない。ワタルの全財産は、一つのリュックサックに収まっていた。最新のノートPC、スマホ、着替えが数枚。そして、万が一のために少量の現金。それだけで十分だった。物質的な所有は無駄だ。場所を取り、心を縛り、いつか手放す時には悲しみを生む。
こうして彼は、デジタルな世界に自分の全てを預けるようになった。日本の銀行口座に預けられた資産、世界中の人々と繋がるSNSアカウント、思い出の写真や動画もすべてクラウドの中。肉体はただの器。情報こそが、ワタルを構成するすべてだった。
その日、ワタルは取引を終えると、ノートPCをリュックにしまい、街へ繰り出した。
灼熱の太陽が照りつける通りには、色とりどりの屋台が並び、活気に満ちている。
熱気、喧騒、そして異国の匂い。彼は、そうした旅の非日常感を心から愛していた。
屋台で買ったサテ・アヤムを頬張りながら、SNSのタイムラインをスクロールする。
かつての同僚が、マイホームを建てたことを報告していた。子供を抱いて、家族で写る写真。誰もが幸せそうな顔をしている。
だが、それらの他人の日常を見てもワタルは、何も感じなかった。
ああ、また誰かが定型的な「幸せ」という檻の中へ入っていく。そう思うと、少しだけ優越感を感じた。自分は違う。誰にも何者にもならない。
インドネシア特有の甘ったるく体にまとわりつくような夜。ワタルは、バーで知り合った地元の女性と、酒を飲み交わした。流暢な英語で、旅の話や投資の話をする。彼女は彼の話に目を輝かせ、ワタルはいつものように、一晩だけの関係を楽しむ。名前も、住んでいる場所も、深く聞く必要はない。お互いが、お互いの人生の、ほんの小さな一ページを飾るだけ。
愛だの、友情だの、そんなものは彼には必要なかった。物理的な距離が、心にまで壁を作る。
それが、ワタルの望んだ生き方だった。明日には、彼女の顔を忘れるだろう。そして、また別の国へ向かう。それが彼の日常であり、彼の全てだった。
誰も知らない「ワタル」。誰にも縛られない「ワタル」。 それが、彼が信じる最も効率的で賢い生き方だった。画面の向こうに広がる無限の情報世界と、リュック一つに収まる物理的な世界。ワタルは、その二つの世界を行き来しながら、自分の人生を謳歌していた。この完璧な日常が、永遠に続くものだと信じて疑うこともなく。