第2章

その夜、ワタルはホテルの最上階にあるレストランで夕食をとっていた。いつもは安宿なのだが、この辺りは治安がめっぽう悪い。こういう治安が悪い地域に滞在するときは、安全をお金で買うことにワタルはしているのだ。窓の外には、宝石を散りばめたかのような街の夜景が広がっている。グラスの中で氷がカランと音を立てる。目の前のテーブルには現地の高級料理が豪華に並んでいるが、ワタルの視線は、皿の上の食材ではなくテーブルの端に置かれた自分のスマホの画面に釘付けだった。

「ワタルさん、何か心配事ですか?」

流暢な英語で尋ねてきたのは、今日知り合ったばかりの現地の女性だ。彼女は、美しい顔にわずかな不安を浮かべている。

「いや、少し取引の動向が気になってね」

ワタルはそう言って笑った。それは、この10年間で身につけた、ごく自然な嘘だった。実際には、心配など何もしていない。この数週間、為替市場はワタルの予想通りに動き、彼の口座は着実に膨らみ続けていた。

全てが順調だった。ワタルは、自分の生き方がいかに理にかなっているかを、毎日のように実感していた。組織のしがらみも、人間関係のわずらわしさもない。ただ自分の知恵とスキルだけで、世界中の富をかき集める。そして、その全てはデジタルな世界で完結する。物理的な資産を持たず、情報だけを武器にする。それが、ワタルが信奉する「最も効率的で賢い」生き方だった。明日にはこの街を出て、次の国へ向かう。航空チケットはすでにスマホの中にある。次の滞在先に決めてある明日の安宿も、数時間前にはアプリで予約を済ませていた。

普段より優雅な食事を終えたワタルは、明日出発ということもあり、今日は現地の女性とは一夜を共にせずに連絡先の交換のみをして別れた。自分の部屋へ戻ることにしたワタルは、30階のエレベーターを降り、カードキーをドアにかざしてロックを解除し、部屋に入った。

その瞬間だった。グン、と床が沈み込むような、奇妙な感覚。ガタガタと、遠くで何かが震える音が聞こえる。

「……地震?」

ワタルは、日本で何度も経験した揺れに似ていることに気づいた。しかし、その揺れは尋常ではなかった。ガタガタという音は、ゴオオオオオオオ、という地鳴りに変わり、部屋全体がギシギシと悲鳴をあげる。立っていられないほどの激しい揺れ。壁にかけられていた額縁が落ち、テーブルの上の水が波を打つ。ワタルは、とっさにベッドの下に身を滑り込ませた。

床が、上下左右に激しく揺れ動く。まるで巨大な何かが、地球というおもちゃを弄んでいるようだった。

数分後、揺れは収まった。

だが、その後に訪れたのは、耳をつんざくような静寂だった。

…いや、静寂ではない。

耳を澄ませば街のどこからか、悲鳴やガラスの割れる音が聞こえてくる。

ワタルは、ベッドの下から這い出た。部屋はぐちゃぐちゃになっていた。テレビは床に転がり、ライトスタンドは倒れている。窓の外を見ると、視界は真っ暗だった。街の明かりが、すべて消えている。停電だ。

ワタルは、ポケットからスマホを取り出した。

画面をタップする。しかし、全く電波が無い状況だ。

まさか……。

不安を感じながら、今度はノートPCを開く。電源ボタンを押す。ネットは通じない。

「嘘だろ……」

この地域一帯が、何らかの理由で電波障害が起こっている状態に陥っているのか。

スマホも、ノートPCも、彼の唯一の情報源であり、資産との繋がりであり、生きるためのツールだった。それが、たった一瞬で、沈黙したのだ。

ワタルは、真っ暗な部屋の中で立ち尽くした。

電波もない。部屋の電気もつかない。インターネットに繋がらなければ、彼のデジタルな口座にアクセスすることもできない。世界中のどこにいても、一瞬で情報を手に入れ、金を動かし、誰とでも繋がれる。そう信じていた彼の日常は、一瞬にして終わりを告げた。目の前の部屋を支配する暗闇が、そのままワタルの心の中へと広がっていく。

彼は、自分がどれほど脆い場所に立っていたのかを、初めて知った。

ただの通信機械の故障なのか、それとももっと深刻な事態なのか。スマホとノートPC、この二つのツールに、自分の人生の全てを委ねていたワタルにとって、それは世界の終わりを意味していた。窓の外からは、遠くで救急車のサイレンが聞こえる。それは、ワタルがこれから直面する、物理的な世界の現実を告げる警告音のようだった。 彼の脳裏に、かつて軽蔑していた「物質的な所有」という言葉が浮かんだ。ワタルは、自分のリュックの中身を急いで確認した。現金、パスポート、充電器、そして……他には何もない。ワタルは、リュックの中に残されたわずかな現金だけが、今、彼を支える唯一の物理的な財産であることに気づき、背筋が凍るような恐怖を覚えた。

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