第3章
街全体が停電したことで、ホテルは暗闇に包まれ、ロウソクの頼りない光だけがロビーをぼんやりと照らしていた。ワタルは自室から人の居るロビーに降りてきた。ロビーにいた方が今の状況が把握できると考えたからだ。ワタルは数十人の避難客と共に、ロビーの隅で身を縮めていた。スマートフォンもノートPCも、彼のデジタルな命綱は沈黙したままだ。ただでさえ心細い状況の中、建物の外から聞こえてくる叫び声やサイレンの音は、ワタルの不安を一層煽った。
その時、ホテルのドアがけたたましい音を立てて開いた。銃を構えた数十人の男たちが、血走った目でロビーを見回す。強盗だ。
ワタルはとっさに身を隠した。だが、男たちの目的は宿泊客の命では無く、現金や宝石だった。彼らはロビーに数人を残して、階段から上階の宿泊客たちの部屋に次々と押し入り、金品を奪っていく。時々、悲鳴や怒鳴り声が響き、ワタルの心臓は早鐘のように鳴り続けた。
時間が永遠にも感じられるほど長く過ぎ、やがて男たちは大荷物を抱えてロビーへと戻ってきた。ワタルは身をひそめたまま、息を殺してやり過ごそうとする。しかし、ワタルが身を隠していた柱の影に、男の一人が近づいてきた。その男の足元には、ワタルがうっかり落としてしまっていたノートPCとスマホが転がっていた。
ワタルは絶望的な気持ちでそれを見つめる。
「頼む、気づかないでくれ…!」
心の中でそう叫んだ瞬間、男の足がワタルのノートPCとスマホを確認したのちにわざと踏み潰した。
「バリッ!」
小さく鈍い音が響き、ワタルの心臓が凍り付いた。それは、彼のデジタルな命綱が完全に断ち切られた音だったのだ。
運が良い事に、男たちはワタルの存在に気づくことなく、そのまま去っていった。だが、ワタルにとって、それは強盗に身ぐるみを剥がされるよりも恐ろしい出来事だった。
震える手で、ワタルは地面に転がるノートPCとスマホを拾い上げた。ノートPCの液晶画面は、ヒビが入り、見るも無残な状態になっていた。スマホは、画面も本体もひしゃげて、原型を留めていなかった。ワタルは何度も何度も電源ボタンを押したが、画面が再び光ることはなかった。
その瞬間、ワタルは全てを悟った。日本の銀行口座に預けられた資産、世界中の人々と繋がるSNSアカウント、旅の思い出を収めた写真や動画。全てとの繋がりが失われたのだ。物理的な破壊が、デジタルな資産を完全に消し去った。彼はデジタルな世界に生きていた。だが、そのデジタルな世界との繋がりは、たった一つの物理的な衝撃で、跡形もなく消え去った。
ワタルは、ホテルのロビーに崩れ落ちた。絶望と不安が、嵐のように彼の心を襲う。彼は、自分がどれほど脆い場所に立っていたのかを、痛感した。彼を支えていたのは、強固なネットワークでも、高度な知識でもなく、たった二つの物理的な機械だったのだ。結局彼に残されたのは、リュックに押し込めていた、ほんの数枚の紙幣だけ。その紙幣を握りしめ、ワタルはホテルを出た。
外の街は、昼間の喧騒とは打って変わって、混沌とした静けさに包まれていた。停電した街は、闇に沈んでいる。懐中電灯を持った人々が、瓦礫と化した建物の中をさまよう。遠くで響く悲鳴。局所的な火事も所々で起きているようだった。そして、パトカーと救急車のサイレン。
ワタルは、自分が「何者でもない自分」を演じながら、生きてきたと思っていた。だが、それは傲慢な思い違いだった。彼は、デジタルな資産によって「何者か」でいられたのだ。お金という力と、世界中のどこにいても繋がれるという優越感が、彼のプライドを支えていた。それが、今、全て失われた。ワタルは、もう一度自分の手の中の紙幣を見た。それは、彼を支える唯一の物理的な財産。
だが、それだけでは、この混沌とした街で生きていくことはできない。
彼は、絶望の中、壊れたスマホとノートPCをリュックに詰め、あてもなく街をさまよった。スマホの位置情報が無ければ、ここがどこだか全く分からない。どこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。彼の今まで全ての答えは、ノートPCとスマホの中にあった。
だが、その答えは、もうどこにもない。
ワタルは、ただの「ワタル」として、一人、暗闇の中に取り残された。彼の心は、凍り付くような恐怖に支配されていた。もはや、彼を支えるものは何もない。この世界に、彼を必要とする場所はなく、強盗も彼に見向きもしない。 ワタルは、リュックの中のわずかな現金だけを握りしめ、混乱する街をさまよう。それが、彼に残された、最後の希望だった。そして、その希望が、どれほど頼りないものかを、ワタルは痛感していた。すべてを失った夜。ワタルは初めて本当の孤独を知り、涙を流した。