第4章
夜明けの光が、瓦礫と化した街を灰色に染めていく。結局一睡もできなかったワタルは、元のホテルのロビーの片隅で、ただただ呆然と座り込んでいた。リュックの中には、現金で買ったわずかな水とパン、壊れた電子機器、パスポート。それだけが、今の彼の全てであり、彼をかろうじて人間として存在させているものだった。スマホもノートPCも、もはやただのガラクタだ。充電もできない。電源も入らない。
「何か、通信手段を…」
ワタルは、震える声でつぶやき、立ち上がった。彼は、混乱した街をさまよった。人々の絶望的な表情、倒壊した建物の残骸、救助を求める叫び声。そのすべてが、ワタルがこれまで見てきた、美しい風景や豪華な食事とはかけ離れた現実だった。
「ネットを使える場所は…」
彼は、必死に探した。そして、建物の屋根から衛星通信のアンテナが伸びている、無傷の建物を見つけた。それは、大使館だった。大使館の職員に事情を話し、ワタルは大使館内の通信端末を借りることができた。震える手で、ワタルはパスワードを入力し、ネット銀行のアプリにログインする。
「大丈夫だ、大丈夫だ…」
自分に言い聞かせるように、ワタルは祈るような気持ちで画面を見つめた。
しかし、最初の口座にログインしようとした瞬間、画面に表示されたのは「この口座は凍結されています」というメッセージだった。
「なんで…」
ワタルは混乱した。別の口座も試す。
「口座情報がありません」
…凍結されている。ワタルは、頭が真っ白になった。
結局彼が所有していた口座の中で唯一ログイン出来た口座の中を確認すると、画面に表示された残高は、たったの数百ドルだった。
ワタルは、愕然とした。
「そんなはずはない…」
ワタルは、信じられなかった。彼の数件に分けて振り分けておいた口座には、億単位の資産があったはずだ。それが、全部合わせてたったの数百ドル?
ワタルは、必死に過去の取引履歴を確認した。そこには、見覚えのない取引がいくつも記録されていた。何者かが、彼のデジタルな資産を盗み出したのだ。
「そんな…」
ワタルは絶望の淵に突き落とされたが、心当たりは実は沢山あるのだ。一夜を共にした女性がワタルのスマホを開いてみていた事もあるし、なによりワタルが彼女たちの目の前で資産運用のやり取りをして事細かに説明していたのだ。この地震によりセキュリティが甘くなり、各国のワタルが関係を持った女性たちが一斉に奪っていったのであろう。兎にも角にも、これまでの10年間、彼が築き上げてきた全てが、たった一晩で文字通り消え去ったのだ。
その時、ワタルはふと思い出した。「もしや…ああ、駄目だ。残ってない。」旅の記録や思い出もクラウドサービスに記録していたが、それも全て消去されていた。おそらく、一緒に写った写真などの証拠の痕跡を残すのを恐れた者が、ワタルの金銭を奪うと同時に、全て消去したのだ。
ワタルは、大使館の職員に事情を話したが、職員は困惑した表情を浮かべるばかりだった。
「申し訳ありません。このような状況では、こちらでも何もできません」
ワタルは、自分が今までいかに脆い場所に立っていたのかを、痛感した。彼は、物理的な資産を持たないことを誇りに思っていた。しかし、そのデジタルな資産は、物理的な攻撃から守ることはできなかった。パスワードとセキュリティソフトという脆弱な鎖で、彼の財産はかりそめに守られていたに過ぎなかったのだ。
ワタルは、わずかに残された現金と、パスポートを握りしめた。彼の全財産は、日本に帰るための最低限の航空券代しか残っていなかった。
「日本に…帰るのか…」
ワタルは、5年ぶりに日本へ帰国することを決意した。それは、彼の人生の敗北を意味していた。かつて、すべてを捨てて飛び出した故郷。今、彼は、何もかも失って、そこに帰ろうとしている。ワタルは、大使館を出て、空港へと向かった。
空港は、人でごった返していた。皆、同じように、この混乱から逃れようとしている人々だ。ワタルは、パスポートを握りしめ、飛行機のチケットを購入した。彼の目には、もう希望の光はなかった。あるのは、ただ、敗北感と絶望だけ。彼は、今まで築き上げてきたすべてを失い、一人、孤独に、日本へ帰国する。それは、彼が今まで最も恐れていた、「誰か」になること、そして「何者でもない」自分になることだった。
ワタルは、飛行機の窓から、遠ざかる街の夜景を見つめた。それは、彼が愛したデジタルな世界の最後の輝きだった。もう二度と、この世界に戻ることはないのかもしれない。彼は、ただの「ワタル」として、日本へ帰国するのだ。それが、彼の新しい人生の始まりだった。