第5章
成田空港の到着ロビーは、人々の再会の熱気であふれていた。ワタルは、その喧騒の中に、ぽつんと一人立ち尽くしていた。5年ぶりの日本の空気は、湿っぽく、そしてどこか懐かしい匂いがした。スーツケースもない。リュック一つで、彼は故郷の土を踏んだ。
電車に乗り、見慣れた景色を眺めながら実家へと向かう。5年前、彼は「何者でもない自分」になるために、この国を飛び出した。だが今、彼は本当に「何も持たない自分」になって、ここに帰ってきた。敗北感と、行き場のない虚無感が、ワタルの心を支配していた。実家の最寄り駅に着き、見慣れた街並みを歩く。無精ひげで汚れた衣服を着ている、変わり果てた自分の姿を、両親はどんな顔で見るだろう。そんな不安を抱えながら、家のドアを開けた。
「ただいま…。」
ワタルの声に、奥の部屋から母親が顔を出した。
「あら、ワタル。おかえり。」
特に驚く様子もない母親にワタルは拍子抜けしたが、その隣に見慣れた顔があった。
「…アカネ?」
そこにいたのは、かつての同僚で元カノだった女性の、アカネだった。ワタルは驚愕し、信じられない眼差しでアカネを見つめた。
「なんで、お前がここに…。」
アカネは、ワタルの驚いた顔を見て、ニヤニヤと意地悪く笑って軽口を叩いた。
「久しぶり、ワタル。アンタ、なんか随分とやつれたんじゃない?」
「アカネちゃんがね、ワタルと事実婚をしているって言うから、2年くらい一緒に住んでたのよ。」
ワタルは、頭が真っ白になった。
事実婚?
「…何を言ってるんだ、アカネ。」
ワタルは、混乱しながらアカネに問いかけた。アカネは、少しだけ照れたように微笑む。
「5年前に突然アンタ、何も言わずに居なくなったでしょ。アンタがいつ帰ってくるかわからなかったから、とりあえずこの家の部屋を借りてたの。そしたら、私のお母さんが心配するからって、ワタルの母ちゃんと共謀して嘘ついて、この家に居候してたんだ。」
「そうそう、あの時はアカネちゃんがね、困ってたんだよ。こんないい子いないよ、ワタル。もう、嫁に貰っちゃいな、ワハハハ。」
ワタルの母親は豪快に笑った。
ワタルはその二人のやり取りに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「お前…ずっと俺を待ってたのか?」
アカネは、いつもの屈託のない笑顔で答えた。
「そりゃそうだよ。アンタがいつか帰ってくるって信じてたから。」
その夜、ワタルは、両親とアカネを前に、これまでの悲惨な出来事をすべて話した。東南アジアでの大地震、強盗、そして、全てのデジタル資産の喪失。話しながら、ワタルの顔は、どこか晴れやかだった。まるで、長い旅の疲れが、全て洗い流されたかのように。
ワタルの話を聞いたアカネは、大声で笑い出した。
「あはははは!アンタ、やっぱり昔からそういう詰めが甘い所あるよね!」
アカネの言葉は、ワタルのプライドを傷つけるどころか、むしろ心地よかった。
「そうだろ?俺はいつも、どこかで失敗してたんだ。」
ワタルは、そう言って、自分自身を笑い飛ばした。アカネの笑顔に、ワタルの心は安らいでいく。彼女は、彼の全てを笑い飛ばしてくれる。彼の失敗も、彼の弱さも、全て受け入れてくれる。それは、デジタルな世界では決して得られなかった、温かい心の繋がりだった。
翌朝、ワタルは、もう一度自分の人生をやり直す決意をした。彼は、アカネにこう告げた。
「じゃあ、今度は二人で世界を旅するか。」
アカネは、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で答えた。
「もちろん。私、貯金ならあるから。」
その言葉に、ワタルは再び胸が温かくなった。
「二人なら、何があっても大丈夫だろ。」
ワタルは、心からそう思っていた。今度の旅は、一人ではない。彼は、もう孤独ではない。
ワタルとアカネは、両親に手を振った。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。二人で幸せになるのよ。」
母親の優しい言葉に、ワタルは涙をこらえた。
彼は何も持っていない。だが彼には、愛する人がいる。それだけで十分だった。 ワタルとアカネは、手ぶらで、新たな一歩を踏み出した。それは、彼が今まで信じてきた「効率的で賢い」生き方とは、全く異なるものだった。だがその生き方が、彼を本当の幸せへと導くことを、ワタルは知ったのだ。