第1章

『痛覚』

それは人類が、いや生物すべてが初めて味わう感覚。その感覚を避けるために生活を、文明を、歴史を作り上げたと言っても過言ではない。そして痛みという生命の危険信号があるから、それを緩和するために食を、住居を、病を克服して、人類は進化し発展してきたのだと心底、今の私は思う。

 私の名前は由衣。私は私立大学を去年卒業し、何とか第3希望の就職先の会社の事務員になることが出来、念願の上京と一人暮らしを始めたばかりだ。

父親が中間管理職のサラリーマンで、母親が週に3回のパートに行っている。5歳違いの姉は大学卒業してから2年働いて大学時代に知り合った彼氏と一昨年、結婚した。今までの人生、満足も不満足もそれなりにある。至って普通の家庭に生まれたと私は思っていた。

それが、自他共に認める「普通」なんて、今まで思わなかった。

 私は2日前から右上の奥歯に違和感を覚え、近くの歯医者を受診した。5年ぶりの歯医者さんへの受診だったのでネットの口コミも一応みたが、嘘だらけのネットの口コミなんてどうでも良かったので、一番近くの歯医者さんに電話で予約をして受診した。

久しぶりの歯医者さんの中は綺麗に清掃されていて、皆さん敬語でこっちが恐縮してしまうくらいだった。

「では、生体モニターを付けますね。」

女性のスタッフの方が、指先と首の根元に装置を付けた。ジェルが冷たくて少しヒヤッとした。

(へえ、こんな装置を付けるんだ。今はこれが普通なのね。)

私は5分くらい患者さん用の椅子に座り、少しウトウトしてしまったが、女性のスタッフの方の、

「お疲れ様でした。生体モニターの記録から適正な対応をさせて頂きます。少々お待ちください。」

という抑揚の無い声で目が覚めた。

全然疲れて無いのに、こちらが恐縮してしまう。

それから5分くらい、目の前の環境ビデオ的な映像を見つつ待っていると、30代くらいだろうか、男性の歯科医師が先程の女性のスタッフを連れて神妙な面持ちでやって来た。

「初めまして、失礼ですけど今まで医療機関を受診したことはありますか?」

私は、妙な事を聞くのだなと思った。

「初めまして。はい、5年くらい前に高校の歯科検診で、汚れがあると言われて、受診しました。」

歯科医師は驚愕の表情をしながら、

「そうですか、ちなみにそこの医療機関ではどのような対応をされていましたか?」

私は少し不安になりつつも正直に答えた。

「対応?いえ、別に何も。歯石と茶渋をとっただけです。それだけです。」

歯科医師は下を向き思いつめた顔をして答えた。

「…そうですか。すいません。こちらの医療機関ではあなたの対応はしかねます。紹介状をお書きしますので、近隣の大学病院に受診の方をお願いします。」

私は、びっくりして心の中が不安で仕方が無かった。

「えっ?まだ口の中も見てないのに、どういうことですか?私、何か凄い病気なのですか?」

私のその言葉を聞き、女性のスタッフの方は青ざめ、手で顔を覆った。

男性の歯科医師は下を向き、重く静かな声で話した。

「…はい。貴方は、普通の方なのです。正確にいえば500万人に1人の、全ての感覚モニターが中間点の方なのです。この県の医療機関の中で過去5年間、初めての普通の方なのです。」

私は頭の中が、ハテナ?で埋め尽くされた。

「…え?どういうことなのか、分かりません。普通、って何か駄目なのですか?」

男性の歯科医師は下を向き、私の視線を避ける素振りをしながら重く、静かに話した。

「これ以上は、私の口からは言えません。詳しくは痛覚専門外来の担当の先生からお話を聞いてください。」

私は紹介状を貰い、その日は仕事の休みをとっていたので、その足で大学病院に向かった。

 痛覚専門外来は10年前から出来た、今ではどこの総合病院にもある専門外来だ。

今でもニュースやドキュメント番組で度々取り上げられているこの専門外来は、世間に疎い私でも知っている。

「痛覚専門外来は、今や全ての診療科に関わり、医療の根幹を成すものになった。」

…といういつか見た番組のナレーターの最後の決め台詞を私はうっすら覚えていて、向かう電車の中で一人うつむき、噛みしめるようにその言葉を思い返していた。

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