第5章

 私は約束の時間に遅れないよう、再び大学病院の門をくぐった。

案内されたのは、最初に来た時と同じあの豪華な特別面接室だ。

フカフカの黒い革張りソファーに深く腰を下ろすと、まるで底なし沼に沈み込んでいくような感覚に陥った。

 ふと視線を上げると、壁に掛けられた抽象的な絵画が目に飛び込んでくる。

以前はただの不気味な模様だと思っていたが、今は違う。

描かれた女の人の歪んだ瞳が、キャンバスの中からじっと私を監視しているような気がしてならない。

しばらく絵画とにらめっこをしていたが、目の前のテーブルにいつの間にか湯気を立てる緑茶の茶碗が置かれていることに気づいた。

入室した時には間違いなく無かったはずなのに。

この病院の事務員は、気配を消して動く訓練を受けた現代の忍者なのかもしれない。

そう思うと、なんだか可笑しさがこみ上げてきて、私は誰もいない部屋で一人、ニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべていた。

 勢いよくドアが開く音が響き、満面の笑みを浮かべながら田辺先生が、まるで宝くじが当選したかのような歓喜の声で私に話しかけた。

「こんにちは、由衣さん! お待ちしておりましたよ。素晴らしい、実に素晴らしい結果が出ました!」

先生は私の正面に座るなり、手に持ったタブレット端末を宝物でも見せるかのように掲げた。

画面には、私の生活を24時間監視し続けた痛覚モニターのログが、鮮やかな折れ線グラフとなって表示されている。

「今回の検査結果と集計が出ました。由衣さん、本当におめでとう! 最初の二週間ほどは、計測不能なほどに平坦で退屈な普通の値だったのですが…見てください、この後半の跳ね上がりを! 心拍の乱れ、睡眠の質の低下、そしてこのシナプス間に走る特有の電気信号。なんと躁鬱傾向+4という極めて良好な値を叩き出しました。もはや、あなたはどこに出しても恥ずかしくない、立派な普通ではない人になられたのです!」

先生の熱弁に、私は自分が褒められているのか、それともけなされているのか分からなくなった。

もう何が何だか分からない。私は、ようやくの思いで口を開いた。

「…あの、先生。私、もうこの痛覚モニターのアルバイト、辞めさせてください。」

 弱々しく訴える私に対し、田辺先生は拍子抜けするほどあっさりと、満面の笑みの表情は崩さず、だが全然笑っていない目のままで、深く大きく頷いた。

「もちろんですとも、由衣さん。もう十分すぎるほどのデータは集まりました。それにあなたはもう普通ではないのですから、これ以上の痛覚モニターは不要です!」

 先生は身を乗り出し、まるで福音を告げる神父のような声で続けた。

「この『+4』という公式な診断データがある限り、これからは国内どこの医療機関へ行っても、保険治療を受ける権利を得ました。これまでは何の数値も出ないせいで対応出来ませんでしたが、今やあなたは診療受け放題、治療され放題です。おめでとうございます。これであなたは、ようやくこの社会の一員として、正式に認められたのですよ。」

「…良かった。やっとこのアルバイトが辞められる。」

私は心底安堵して、肺の中の空気をすべて出し切るように大きな溜息をつき、天を仰いだ。

 フラフラした足取りで大学病院を出ると、午後の強い日差しが私を照らした。

ふいに、こめかみの奥を鋭いキリで刺されるような衝撃が走った。

「…痛っ。」

この奇妙な経験を経て、私は晴れて、多くのひとが抱えている頭痛持ちとなったのだ。

1 2 3 4 5