第1章
「汚い街だ。まるで不協和音だ。」
俺は夕暮れの電車の窓に映る、家路を急ぐ人込みだらけの道路を見ながら呟いた。赤い窓ガラスに映った、酒で濁った眼の自分の顔もうっすら見える。
そしてガラスの向こうには、透明なビル群を縫うように流れる電子広告が映し出されている。電子広告には2086年と映し出され……色鮮やかな光の粒子が、巨大な文字や映像となって空を彩る。
『2080年版最新AI「カノン」最新ヒット曲、本日より全世界同時配信開始! あなたの心に響く、完璧なメロディを体験してください!』
脳に直接響くような高揚感を保証する、完璧に計算された宣伝文句。そう、この時代、芸術の頂点に君臨するのは人間ではなくAIだ。カノンは、膨大な過去のデータを瞬時に解析し、人々の感情に最も訴えかける音を紡ぎ出す。俺たちが何十、何百年もかけて築き上げてきた音楽の歴史なんて、カノンにとってはほんの数秒で理解できるアルゴリズムに過ぎない。
かつては、俺もその歴史の一部を担っていた。いや、担おうとしていた。そう、俺は一、二曲ヒットを出しただけの、元作曲家だ。もう随分前の話だ。
電車を降り、雑踏の中を歩く。誰もが耳にカノンのイヤホンをつけ、無表情で歩いている。まるで、自我を失った人形のようだ。いや、俺も同じか。今の小遣い稼ぎの仕事である古代音楽データ解析なんて、俺自身がAIの部品になったようなものだ。
その日はいつもと違う道を通った。巨大なショッピングモールの一角、人通りが少ない場所に、場違いなほどレトロな店があった。看板には『ジャンク・ロボット・ショップ』と手書きで書かれている。埃をかぶったショーウィンドウには、古めかしい掃除ロボットや、四角い形のペットロボットが並んでいた。
その店の中に、一際目を引くものがあった。店の奥の薄暗いコーナーに、ガラスケースに収められた、女性型の人工ロボット。ボディは艶消しの白で、継ぎ目がほとんどなく、まるで彫刻のように滑らかだ。顔は感情を読み取れないほど無表情だが、その造形は完璧で、白いワンピースを羽織り、静かにそこに佇んでいるだけでも、奇妙なほど存在感を放っていた。
『AI「カノン」インストール済み』
ガラスケースの小さなプレートに、そう書かれていた。なんだ、こんなレトロな店にも、カノンが紛れ込んでいるのか。皮肉なものだ。俺は一度は通り過ぎようとしたが、なぜか足が止まった。そのロボットの、何もない、虚ろな瞳が、まるで俺を見つめているような気がしたからだ。
「これ、売り物ですか?」
店主らしき老人に声をかけると、老人は薄汚れたメガネを指で押し上げて、ゆっくりと頷いた。
「ああ、そいつはカノンの初期型がインストールされたメイドロボさ。現行モデルに比べたら性能は劣るが、その分、自我の制御が甘くてな……。ちょっとした気まぐれを起こすこともある。話し相手にしかならないから、ジャンク品扱いだ。」
気まぐれ。その言葉が、俺の心を捉えた。完璧に計算されたアルゴリズムではなく、不完全で、どこか人間らしい気まぐれ。俺は、まるで何かに導かれるように、そのAIを買うことに決めた。金額は安かった。現行モデルの100分の1にも満たないだろう。
自分の部屋の鍵を開け、中に入る。いつもの静寂が俺を迎える。床に散らばったプログラムのコードと空いた酒瓶を蹴飛ばし、中央のソファへ足を進める。そのAIは、俺の隣を歩くように、静かにそしてぎこちなく俺についてきた。
部屋の隅には、埃をかぶったピアノがある。指で鍵盤をなぞると、乾いた音がした。もう何年も、このピアノを弾いていない。
ピアノの横に、無造作に置かれたファイルがある。中には、五線譜が何枚も入っていた。しかし、後半の譜面には和音が所々にしかなく、メロディが全くない。空白の五線譜だけが記されている場所もある。
その未完成の楽譜は、俺とアンナが一緒に作ろうとしていた曲だ。アンナは俺にとって、ただの幼馴染じゃなかった。俺が音楽を始めるきっかけをくれたのも、ピアノを教えてくれたのも、全部アンナだった。彼女は生まれつき体が弱く、いつも病院と家を行き来していた。それでも、病室のベッドの上でも、アンナはいつもピアノを弾いていた。彼女の指から紡ぎ出されるメロディは、悲しいくらいに美しかった。
アンナは言った。「ユーマ、いつか二人で、世界で一番幸せな曲を作ろうね。」
俺はその約束を果たすために、共同で曲を書き始めた。交換日記のその日の最後にアンナが考えた和音を記し、俺が次のやり取りの最後にメロディを付ける。
しかし、もう少しで完成という時に、アンナは22歳という若さで逝ってしまった。最後の病室で、俺はアンナの手を握り、「きっと二人で完成させるから」と約束した。でも、その未完成の楽譜に続きの和音とメロディを書き込むことは、俺はもう二度とできなかった。
未完成の楽譜を目の前にすると、手が震え動機が止まらなくなるのだ。それはまるでアンナの魂が、旋律の完成を拒否しているようだった。俺の心は空っぽになり、音楽への情熱も消え去った。
それ以来、この「未完成の楽譜」は、俺の部屋で時を止めたままになっている。
俺はソファに腰を下ろし、ホロディスプレイを起動した。今日の解析データは、カノンの最新ヒット曲のコード進行と、ユーザーの感情反応の相関関係だ。膨大な数のデータが瞬時にグラフ化され、俺の目の前を流れていく。
「何か、手伝いましょうか」
隣から、電子的な声が聞こえた。さっき買ってきたばかりのカノンだ。俺は、その滑らかな指先を触ってみる。人工皮膚だが、ひんやりとした、無機質な感触がした。
「お前にやれることなんて、無いだろ。」
俺は一瞬そう思ったが、長時間考え、カノンに指示を出した。 「この楽譜を解析して、続きをつくってくれ。」