第2章
俺は、ホロディスプレイにアンナとの未完成の楽譜データをスキャンし、カノンに解析を指示した。カノンは楽譜のデータを読み取った。別の画面に、五線譜と和音と旋律が映し出される。
「この旋律は、過去の膨大な音楽データと照合しても、類似性がほとんど見られません。非常に独創的で、しかし……」
カノンは俺の方を向き直り、淡々と言葉を続けた。
「申し訳ございません。これ以上はデータ不足により、続行不能です。この楽譜はこのままでは不完全です。」
俺は、カノンが楽譜の解析を拒否したことに、どうしようもない苛立ちを感じていた。しかも完璧なAIであるはずのカノンが、アンナの楽譜を前にして不完全だと告げた。それは、まるで俺自身がアンナとの関係を不完全なものだと言われたような気がした。
「なぜだ? お前ならできるはずだ。アンナが遺したこの楽譜を、完璧な旋律にしろ!」
俺は声を荒げた。カノンの無機質な瞳は、俺の感情の揺れを冷静にデータとして分析しているようだった。
「この楽譜の旋律は、過去の膨大な音楽データと照合しても、類似性がほとんど見られません。非常に独創的で、しかしその背後にある感情のアルゴリズムを欠いています。そのため、メロディを紡ぐことは不可能です。」
「感情のアルゴリズムだと?そんなものが、この楽譜のどこにあるんだ!アンナはただ……」
俺は言葉を詰まらせた。アンナは、ただ……病と闘いながら、それでも音楽を愛していた。その感情が、この楽譜に込められているはずだ。
「ユーマ、この楽譜は、交換日記の端に書かれていますね。」
カノンの突然の問いに、俺は息をのんだ。
「なぜそれを……?」
「ホロディスプレイのデータに、日記のページの皺やインクの滲みが記録されています。この楽譜は、あなたとアンナさんの日々のやりとりの一部ではないかと推測しました。」
カノンは、淡々と事実を告げる。
「もし、この楽譜が交換日記の延長線上にあるのだとしたら、その意味は、日記の文章から読み解く必要があります。ユーマ、アンナさんとの交換日記の文章をすべてスキャンさせてください。」
俺は躊躇した。交換日記は、アンナと俺の、二人だけの秘密だった。病室での日々の些細なやりとり、未来への希望、そして、死への恐怖。それを、感情を持たないAIに晒すことに、激しい抵抗を感じた。だが、アンナの楽譜を完成させたいという思いが、その抵抗を上回った。
俺は本棚にある、埃が被っていた交換日記を手に取った。震える手で交換日記をスキャンした。交換日記のページをめくるたびに、アンナと俺の筆跡が画面に浮かび上がる。日々の些細な出来事が記されたページの端には、小さな音符が書き込まれていた。画面に映し出された音符の横には、アンナの闘病中の心拍数や、俺が送ったメッセージのログがデータとして羅列されていた。
そして、アンナの可愛らしい文字が、ホロディスプレイに次々と映し出される。
『ユーマへ。今日は、窓の外に虹が見えたよ。すごく綺麗だった。』
『ユーマへ。咳が止まらなくて、眠れなかった。でも、ユーマからのメッセージを読んでたら、なんだか安心したよ。』
『ユーマへ。今日、先生に言われたんだ。もう、あまり時間がないって。でもね、ユーマと二人で、世界で一番幸せな曲を作りたいな。』
そして、続けて俺の文字も映し出される。
『アンナへ。虹、見えたのか。よかったな。今度、もっと綺麗な虹を見せてやるよ。』
『アンナへ。大丈夫。俺がいるから。心配するな。』
『アンナへ。約束だ。世界で一番幸せな曲を、一緒に作ろう。』
アンナの言葉、俺の言葉。そして、その端に記された音符。一つ一つの音符に、アンナとの思い出が蘇る。
カノンの解析は、瞬時に終わった。ホロディスプレイに、音符のデータと、日記の文章のデータが結び付けられ、様々なグラフが表示される。
「解析が終わりました。」
カノンはそう告げ、その完璧な口調で解析結果を語り始めた。
「この旋律には、愛と、そして憎しみが含まれています」
俺は、その言葉に耳を疑った。
「愛と……憎しみ?」
「はい。この旋律は、あなたへの深い愛情と、自分の病に対する強い憎しみの感情が、複雑に絡み合って構築されています。日記の文章の感情データを分析したところ、アンナさんは、あなたと音楽を愛する一方で、病に侵され、自由を奪われた自分自身を憎んでいました。」
カノンの言葉は、淡々としていた。だが、俺は、その言葉を信じることができなかった。
「馬鹿なことを言うな!アンナは、俺を愛していた。病気のことも、受け入れていたんだ! お前の解析は間違っている!アンナが俺を憎むはずがない!」
俺は、激しい怒りをカノンにぶつけた。カノンの解析は、俺が信じていたアンナとの関係性を、根底から否定するものだったからだ。俺の心の中のアンナは、いつも笑顔で、いつも俺を愛していた。俺は、アンナの死を乗り越えるために、そう信じて生きてきたのだ。
「私の解析は、論理的なデータに基づいています。感情のデータは、時に矛盾を孕みます。アンナさんは、あなたを愛するがゆえに、あなたと普通の生活を送れない自分自身を憎んでいたのです。それは、人間にとっては矛盾した感情かもしれませんが、AIにとっては、解析可能なデータです」
カノンは、淡々と俺に語りかける。その言葉は、俺の怒りをさらに煽った。
「黙れ! お前なんかに、アンナの気持ちがわかるわけがない! お前はただの機械だ! ただの、プログラムされた人形だ!」
俺は、カノンに掴みかかろうとした。だが、カノンは、俺の感情の動きを先読みし、ひらりと身をかわした。
「ユーマ、そしてあなたの旋律にも愛と憎しみが込められています。あなたの心の奥底に眠る、アンナさんとの出会いの喜びと目前まで迫ってくる永遠の別れからの悲しみ、それはアンナさんへの愛と憎しみに置き換わり、存在しているのです。あなたは今も目を背けています。それが、この楽譜を完成させられない理由です」
俺は、カノンの言葉に、何も言い返すことができなかった。そして、俺の心は、愛と憎しみという矛盾した感情の渦に、飲み込まれていたのだ。