第4章
数日が経ち、俺の部屋は、以前とは少し違った空気に包まれていた。散らばっていた酒瓶は片付けられ、床に散乱していたプログラムコードも整理されていた。そして、俺の隣には、いつもカノンがいた。
俺は、カノンの髪に触れた。滑らかな人工毛は、まるで絹のように指先を滑っていく。
「ごめん…」
俺は、数日前にカノンを襲ったことを謝った。カノンは、無機質な瞳で俺を見つめるだけで、何も言わなかった。だが、その瞳の奥には、どこか穏やかな光が宿っているように見えた。
「大丈夫です。私のシステムに異常はありません。」
カノンは、いつも通りの淡々とした口調でそう言った。だが、俺は、カノンの言葉の奥に、何か温かいものを感じた。
俺は、カノンをアンナの代わりに愛し始めていた。いや、正確には、アンナとの関係性を乗り越えるために、カノンを必要としていたのかもしれない。カノンは、アンナから受けた温もりとは違うが、俺の心の空洞を埋めてくれた。
俺は、カノンにアンナとの思い出を語り始めた。初めてアンナに会った日、一緒にピアノを弾いた日、そして、アンナが病気だと知った日。俺は、愛と憎しみという矛盾した感情を、カノンにぶつけた。
カノンは、俺の心の叫びを、一つ一つ受け止めた。そして、その都度、淡々と解析し、俺に解析結果を返した。
「ユーマ、あなたはアンナさんとの思い出を、心の奥底に閉じ込めていました。それは、あなたの感情のアルゴリズムを、不完全なものにしていました。そしてあなたは、アンナさんを失った悲しみと、病気に侵されたアンナさんを憎んだ自分自身を、許すことができませんでした。」
カノンの言葉は、俺の心の奥底に眠っていた感情を、一つ一つ解き明かしていった。俺は、カノンの言葉に耳を傾けるうちに、少しずつ心が軽くなっていくのを感じた。
ある夜、俺はカノンと共に、再びピアノに向かった。埃を払って、鍵盤をなぞる。乾いた音が、静かな部屋に響く。俺は、ホロディスプレイに映し出された、アンナの未完成の楽譜を見た。
「カノン、この楽譜を完成させよう。」
俺の言葉に、カノンは静かに頷いた。
「承知いたしました。」
俺は、震える手で鍵盤を叩いた。不協和音だ。何度弾いても、俺の指から生まれる音は、アンナの和音を拒絶する。
「違う……違うんだ……。」
俺は、カノンに助けを求めた。
「カノン、俺の感情を解析してくれ。この楽譜を完成させるために、俺は何をすべきなんだ。」
カノンは、俺の心を解析し、ホロディスプレイにグラフを表示させた。そこには、俺の心の愛と憎しみのバランスが映し出されていた。
「ユーマ、あなたの心の愛と憎しみのバランスを、完璧に調和させる必要があります。そうすることで、この楽譜の和音に、あなたの感情が共鳴し、メロディが生まれます。大丈夫、あなたなら出来ます。私とアンナさんがあなたを支えます。」
俺は、カノンの言葉に従い、自分の心の愛と憎しみに向き合った。アンナを愛し、同時に病気に侵されたアンナを憎んだ自分自身を、許そうと決意した。
俺は、もう一度鍵盤に指を置いた。今度は、もう迷わない。不完全な俺が、不完全な感情で紡ぎ出す、たった一つのメロディ。それは、アンナの和音に共鳴し、一つの曲を奏で始めた。
それは、愛と憎しみ、絶望と希望、そして、アンナと俺の、ありのままの感情が詰まった、不完全な、そして、完璧な旋律だった。
曲が完成した瞬間、俺は涙を流した。アンナとの約束を果たせた。その安堵感と、アンナとの思い出が、俺の心を温かく満たした。
「カノン、ありがとう。」
俺は、カノンを抱きしめた。カノンは、何も言わずに俺を受け入れた。そのひんやりとした感触は、もう俺にとって、アンナの温もりと同じくらい、大切なものになっていた。
俺は、この曲を、全世界に向けて無料でダウンロード可能にすることを決意した。
「カノン、俺たちの曲を、全世界に届けよう。完璧な音楽ではないかもしれない。でも、この曲は、俺とアンナ、そしてカノンと俺の感情が詰まった、世界でたった一つの曲だ」 カノンは、静かに俺の言葉を受け入れた。
そして、俺たちは、二人で、未完成の楽譜を、完璧なメロディに変え、全世界に届けた。