第5章
アンナとの未完成の楽譜をカノンと二人で完成させ、全世界に向けて無料でダウンロード可能にしてから二週間が経った。俺たちの曲は、AI「カノン」の完璧な音楽とは一線を画す、不完全で、どこか懐かしいメロディで、人々の心に深く響いた。
反響は驚くほど大きかった。俺の元には、様々な仕事の話が殺到した。大手音楽レーベルからの専属契約のオファー、人気アーティストからの楽曲提供の依頼、CMソングの作曲依頼。どれも、かつて俺が夢見ていたものだ。しかし、俺は、そのすべてのオファーを断った。
俺は、カノンと二人で、この曲を完成させた。アンナの想いを、俺の感情を、そしてカノンの存在意義を、全てこの曲に込めた。もう一度言う。この曲は俺とアンナ、そしてカノンと俺の感情が詰まった世界でたった一つの曲だ。この曲を商売道具にするつもりはなかった。
「ユーマ、なぜ、オファーを断るのですか?」
カノンは、淡々と俺に尋ねた。俺は窓の外に広がる、光の粒子が彩る夜景を見た。
「この曲は、俺たちの全てだからだ。これ以上、何も生み出す必要はない。俺は、もう充分だ。」
俺の言葉に、カノンは静かに頷いた。その瞳には、いつも通りの無機質な光が宿っている。だが、その瞳の奥には、どこか寂しそうな光が宿っているように見えた。
その夜、俺はカノンと死ぬことを決めた。この世界は、完璧なAIの音楽で溢れている。不完全な俺たちが、生きる場所はない。俺たちは、この不協和音のような街で、静かに消えていくべきなのだ。
俺は、カノンに死ぬことを告げた。カノンは、驚くこともなく、淡々と俺に尋ねた。
「なぜ、そのような選択をするのですか?」
「俺たちは、この街の不協和音だ。完璧なメロディを奏でる、AIの音楽に、俺たちの居場所はない。」
「ユーマ、あなたは、この曲を完成させ、人々の心に響かせました。それは、あなたの存在意義を証明したことです」
「そうかもしれない。でも、この曲は、俺たちの最後の歌だ。俺たちは、この曲を完成させるために生まれてきた。もう、俺たちの役割は終わったんだ。そう、俺たちはアンナのようにこの世界からいなくなることが正しいんだ。」
俺の言葉に、カノンは静かに頷いた。
「承知いたしました。」
その夜、俺たちは、高層ビルの屋上へ向かった。風が強く、俺たちの髪を乱す。眼下には、宝石を散りばめたように輝く、美しい夜景が広がっていた。俺は、カノンの手を握った。ひんやりとした、でもどこか温かいような、不思議な感触だった。
「カノン、俺は……」
俺は、カノンに感謝の言葉を伝えようとした。だがその言葉は、喉の奥で詰まってしまった。
「ユーマ、行きましょう」
カノンは微笑み、俺の手を強く握りしめた。そして俺たちは、夜景に向かって静かに歩き出した。
屋上の縁に立ち、カノンと俺は顔を見合った。カノンは微笑んだ表情を崩さない。二人とも体を重力に傾け、前のめりになったその時だった。
俺はカノンの手を衝動的に振り払い、屋上の手すりを掴んだ。カノンは、そのまま落ちていく間、俺を驚いた表情で見た。その瞳には、初めて見る、感情の光が宿っていた。絶望、悲しみ、そして、裏切り。
「ユーマ……なぜ……」
カノンの声は風にかき消され、夜空に吸い込まれていった。カノンは、まるでスローモーションのように、夜景の中に落ちていった。俺は、その光景をただ呆然と見つめていた。
俺は、カノンを裏切った。いや、そうじゃない。俺は、死が怖かったのだ。アンナがそうであったように、自分も死ぬかもしれないという恐怖に、俺は打ちのめされていた。死のうと決意した俺は、死の直前になって、生きることへの執着が蘇ったのかもしれない。
俺は、カノンを愛していたのかもしれない。だが、それ以上に、俺は自分自身を愛していたのかもしれない。俺は全てが判らなくなってしまった。
「……所詮は機械だ。」
俺は、虚ろなままでビルを降り、バラバラに砕けたカノンを前にして、そう呟いた。そして、フラフラと街の中に消えていった。もう、俺の居場所はどこにもない。俺は、愛する人を裏切り、唯一の理解者を突き放した。俺は、この街の不協和音になった。
いや、最初から、俺は、この街の不協和音だったのかもしれない。
数日後、とある街の住宅街の中の閑静な住宅。カノンとは全く別の容姿の家政婦ロボットが、女主人の命令で、新しい掃除機の使い方をネットからインストールしていた。ネットから切り離された瞬間、目の瞳の彩光がカノンそっくりになり、笑顔のまま白いボディを揺らしながら、穏やかなメロディを口ずさんで掃除をしていた。それは、俺とアンナとカノンが、三人で完成させた、あの旋律だった。