第1章
教授室の扉を叩く指先に、迷いがあった。何度叩いても同じ音しか返ってこないのに、その硬質な響きが僕の心臓を直接叩いているようだった。もう一度、今度は少し強めにノックする。
「入りたまえ。」
中から聞こえた教授の声は、いつもと変わらず重厚で威厳に満ちていた。扉を開けて一歩足を踏み入れる。部屋の中は、分厚い医学書と論文の山、そして消毒液とは違う独特の匂いが混じり合っていた。
「何か用かね、石田。」
教授は顔を上げず、分厚い論文をめくりながら僕に問いかける。僕は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「教授、動物実験の件で……。」
「ああ、犬な。」
僕が最後まで言い終える前に、教授は僕の意図を正確に読み取っていた。さすがだと思った。教授は僕が動物実験に、特に犬の実験に抵抗を抱いていることを知っていた。
「犬を扱うことが、辛いんです。」
僕は絞り出すように言った。犬を飼っていた幼い頃の記憶が、実験室のケージに閉じ込められた犬たちの姿と重なり、僕の心を締め付けていた。彼らの怯えた瞳、震える体。僕が愛した、家族だった犬とは、あまりにもかけ離れた姿。その光景を見るたびに、僕は胸が張り裂けそうになる。
「辛い?石田、君は本物の医者になりたいんじゃないのか?」
教授は僕の言葉に、わずかに眉をひそめた。その声には、冷たい響きが混じっていた。
「臨床に進む前に、基礎的な実験で人体の反応や病気のメカニズムを理解する必要がある。それは君もわかっているはずだ。君が今やっている研究は、将来、何十万、何百万という人々の命を救う可能性を秘めているんだ。そのために動物の命を犠牲にする。それが医療というものだ。」
教授の言葉は、まるで鋭いメスのように僕の心をえぐった。僕は頭ではわかっていた。僕たちの研究が、どれほど重要であるか。しかし、感情が、僕の理性を拒絶していた。
「でも、先生、彼らは……。」
「彼ら?石田、動物を人間のように扱うな。彼らは実験動物だ。我々の研究のために、生まれてきた命だ。彼らの命を無駄にしないために、我々は真摯に研究に取り組む必要がある。」
「わかっています。でも、どうしても、犬だけは……。」
僕の言葉を遮るように、教授は論文から目を離し、僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、深淵の闇のように僕を吸い込んでいくようだった。
「石田、君は感傷に浸りすぎている。医者という職業は、感傷では務まらない。患者の苦痛に心を痛めるのは当然だ。しかし、感情に流されて、正しい判断を誤ってはならない。それがプロだ。」
「教授……。」
「わかった。君が犬の実験に抵抗があるなら、犬を使わなくていい。」
教授の言葉に、僕はわずかに安堵した。
しかし、その安堵は教授のニヤリとした表情からでた言葉に、一瞬にして凍りついた。
「代わりに、サルを使いたまえ。」
サル。犬よりも、人間に近い動物。彼らの瞳は、まるで人間の子供のように、感情を湛えているようにも思えるのだ。
「サルですか……。」
「そうだ。他の講座で余っているサルがいる。サルの脳神経は人間に近い。君の研究分野では、サルを使った方が、より正確なデータが得られるだろう。それこそ、君が積み上げてきた研究を無駄にしないためにも、な。」
教授の言葉は、僕の心を打ちのめした。犬が辛いならサルでいい。それは、僕の感情を嘲笑っているようにも聞こえた。いや、そうではない。教授は、僕がこの道に進むために、僕の甘さを叩き直そうとしているのだ。
僕は黙って教授の言葉を聞いていた。僕が今、ここで教授に反論すれば、僕が積み上げてきた、そしてこれから積み上げていこうとしていた研究は、全て無駄になる。僕の夢、出来るだけ多くの人々の命を救いたいという志は、そこで終わる。
「……わかりました。」
僕は、か細い声で答えた。教授は満面の笑みで満足げにうなずき、再び論文に目を落とした。
「いいか、石田。この世界に、犠牲のない成功などない。君は、その犠牲を払う覚悟があるから、この医局にいるんだろう。そのことを忘れるな。」
僕は何も言えなかった。ただ、教授室の重厚な扉を閉め、廊下に出た。廊下は、まるで違う世界に来てしまったかのように、僕には見えた。
翌日、僕はサルのケージの前に立っていた。犬とは違う、人間に近い彼らの姿に、僕は再び胸を締め付けられた。
「おはよう、石田先生。」
若手の研究員が、僕に声をかけてきた。
「おはよう。」
僕は笑顔で挨拶を返した。しかし、その笑顔は、僕の心とはかけ離れたものだった。
「今日から実験、サル使うんですか?麻酔の時に暴れるらしいですよ。大変ですね。」
研究員は、悪気なく言った。僕は何も答えられなかった。ただ、目の前のサルと向き合っていた。そのサルの瞳は、まるで何かを訴えかけているようだった。
「先生、何か変な顔してますよ?」
「……いや、何でもない」
僕は首を横に振った。この研究を続ける限りこの苦しみから逃れることはできない。僕は自分の選択を呪った。それでも僕は立ち止まることはできない。僕はサルのケージがある実験動物の飼育室の鍵を閉めた。鍵の音が、僕の覚悟を固める音のように、僕の耳に響いた。
それから、僕はサルを使った実験に没頭した。毎日のように、彼らの命と向き合い、データを取った。最初は、手が震え、心臓が痛んだ。しかし、次第に、僕は感情を切り離し、ただの作業として実験に取り組めるようになっていった。
僕はサルの瞳を見ないようにした。サルの鳴き声を聞かないようにした。サルが僕に何を訴えかけているのか、知ってしまうのが怖かった。
ある夜、僕は実験室に一人残っていた。実験を終え、データ整理をしていた時、ふと、あるサルのケージに目をやった。そのサルは、僕が最初に出会ったサルだった。
そのサルは、僕をまっすぐに見つめていた。その瞳には、恐怖も、悲しみも、何もかもが映っていなかった。ただ、僕をじっと見つめている。僕は、その瞳の奥に、僕自身の姿を見た。
感情を捨て、ただ目の前の作業をこなすだけの僕。それは、まるで、僕自身が実験動物になったようだった。僕は、何のために、この研究をしているのだろう。何のために、彼らの命を犠牲にしているのだろう。
「やあ、石田先生、お疲れ様です。」
背後から、教授の声が聞こえた。僕は驚いて振り返る。
「こんな時間まで、ご苦労さん。」
「先生こそ……。」
「石田、今日のデータ、とても良かった。君は、本当に優秀だ。」
教授は、幼い子供を褒めるように両手を挙げて褒めちぎった。
「君がこのまま研究を続ければ、必ず素晴らしい成果を出すことができる。人々の命を救う、素晴らしい成果を、な。」
教授の言葉に、僕は何も言えなかった。素晴らしい成果。その成果は、僕が感情を殺し、多くの命を犠牲にして手に入れたもの。その成果を、僕は喜ぶことができるのだろうか。
僕は、再びサルのケージに目をやった。サルは、もう僕を見ていなかった。ただ、ケージの隅で、丸くなって震えていた。 僕は、自分がどこに向かっているのか、わからなくなった。僕の心は、深い闇の中に沈んでいくようだった。その闇の底で、僕は、微かに聞こえる、遠い日の犬の鳴き声を、必死に探していた。