第2章

教授にサルの実験を命じられてから、僕はただ黙々と手を動かしていた。感情を殺し、心に蓋をして、目の前のデータだけを追いかける日々。そうすることでしか、僕は自分を保つことができなかった。犬やサル、実験動物たちの瞳を、僕はもう見なくなった。ただの検体として、彼らを扱うことに慣れてしまった。いや、慣れたふりをしているだけなのかもしれない。

そんなある日の深夜のことだった。僕がデータ入力に集中していると、実験室の奥から、聞き覚えのある先輩の声が聞こえてきた。

「石田、ちょっと手伝ってくれないか。」

僕が振り向くと、西山先輩はケージの中から一頭のビーグル犬を連れ出そうとしていた。その犬は、他の実験動物とは違い、見るからに弱々しく小刻みに震えていた。毛並みは艶がなく、目は濁っていた。

「この子は、明日、安楽死されるんだ」

西山先輩は、犬を優しく撫でながら言った。その声は、いつもよりずっと優しかった。

「安楽死ですか……」

「ああ。もう研究には使えないからな。でも最後に、普通の犬のように一度だけ外の空気を吸わせてやりたいんだ。」

西山先輩は、僕にそう言って微笑んだ。僕は何も言えなかった。ただ、先輩のその行動が、この医局のルールに反していることを知っていた。しかし、僕は先輩を止めることができなかった。

翌日、西山先輩はひどい顔色で出勤してきた。いつもなら冗談を言って研究室の空気を和ませてくれるのに、その日は口を真一文字に結び、誰とも話そうとしなかった。

「どうかしましたか、西山先輩?」

僕が声をかけると、先輩はびくっと肩を震わせ、僕から目をそらした。

「なんでもない。」

その日の午後、教授が研究室にやってきた。教授の顔は、いつになく険しかった。

「誰だ、このデータを出したのは。」

教授は、一枚のグラフを僕たちの目の前に突きつけた。グラフには、今日安楽死される予定の犬のデータが示されていた。その数値は、明らかに異常だった。

「この犬は今日の夜、安楽死の予定のはずだ。それなのに、今日の朝のデータが、なぜこんなに乱れている?この犬の担当は誰だ?」

教授の鋭い視線が、僕たち一人ひとりを射抜く。誰もが言葉を失い、ただ教授の顔を見つめていた。その時、西山先輩が震える声で口を開いた。

「僕です……。」

教授は、何も言わずに先輩をじっと見つめていた。先輩は、その視線に耐えきれず、顔を伏せた。

「今朝のデータは、安楽死前の最後のデータです。なぜ体調を崩したのか、僕にはわかりません。」

「嘘をつくな!なぜ、数値が異常になったんだ。」

教授の声は、怒りに震えていた。

「昨夜、午後23時に校内の監視カメラには君と犬の映像が残っている。すでにこの私が確認済みだ。……君の口から説明したまえ。」

その声に、先輩は涙をこぼしながら、全てを白状した。

「教授、あの犬の名前はハチです。八番ゲージに飼育されていたから僕が名前をつけました。昨日、ハチを少しだけ外に連れ出したんです。外の空気を吸わせてやりたくて……。そうしたら、急にハチが苦しがりだして……。それから、体調が悪くなってしまって……」

西山先輩の言葉に、研究室は静まり返った。誰もが、先輩の行動が、どれほど軽率で、危険なことだったかを知っていた。実験動物は、無菌環境で育ち、外部の環境に極めて弱い。先輩の行動は、研究を台無しにしただけでなく、犬の命を無駄にしたことにもなる。

教授は、何も言わなかった。ただ、先輩の涙に濡れた顔を、じっと見つめていた。その表情は、僕には理解できなかった。まるで、つまらないものを見るような冷ややかな眼差しだった。

そして教授の口元にゆっくりと笑みが浮かび、満面の笑みになった。その笑顔は、僕が今まで見たことがないほど恐ろしいものだった。

「よく、白状した。流石は我が教え子だ。君の散歩させた犬もさぞ喜んでいるだろう。」

教授は、そう言って、先輩の肩に手を置いた。

「君は、医局を除籍だ。明日から来なくていい。」

先輩は、その言葉に、息をのんだ。そして、涙をぼろぼろとこぼしながら、ただ、首を横に振った。

「先生、すみません。どうか、もう一度チャンスを……」

「チャンスなどない。君は、研究者としての資質を欠いている。感傷に流され、研究を台無しにした。この医局に、君の居場所はない。」

教授は、そのまま笑顔で言い放った。その言葉に、先輩はただ、立ち尽くしていた。

「しかし、君のその優しい心は、臨床の現場でこそ活きるだろう。患者の苦しみに寄り添う、良い医者になれるかもしれない。」

教授はそう言って、先輩の背中をポンと叩いた。その言葉は、まるで慰めのように聞こえたが、僕には、それは、先輩をこの医局から追い出すための、甘い言葉にしか聞こえなかった。

西山先輩は、何も言わず、教授室を出ていった。その背中は、見るからに打ちひしがれていた。僕たちは、ただ、その背中を見送ることしかできなかった。

その日、先輩は医局を去った。それからしばらくして、先輩が、小さなクリニックを開業したという噂を聞いた。患者の苦しみに寄り添う、良い医者になっていると。

僕は、先輩が去った後の研究室で、一人、実験動物たちと向き合っていた。西山先輩の担当だった、すでに安楽死されていたハチの八番ケージは、空っぽだった。

僕は、そのケージに手を触れた。冷たい鉄の感触が、僕の心をさらに冷たくさせた。先輩は、ハチに、外の世界を見せてやりたかったのだろう。しかし、その行為が、ハチの命を無駄にし、先輩自身の居場所を奪った。

僕は、ふと考えていた。実験動物たちは、外の世界では生きていけない。彼らは、人間が作り出した環境の中でしか、生きられない。ならば、彼らがこの研究室で、研究のために生涯を全うすることが、彼らにとっての幸せなのではないだろうか。

彼らは、僕たちの研究の犠牲になっている。しかし、その犠牲が、将来、何十万、何百万という人々の命を救うことになる。ならば、彼らの命は、決して無駄ではない。彼らの命は、人類の未来に繋がっている。僕は、そう自分に言い聞かせた。そうすることでしか、僕の心を保つことができなかった。

しかし、僕は知っていた。僕がいくら理屈を並べても、僕の心は、あの日の先輩の涙と、教授の冷たい笑顔を、忘れることができないだろう。そして、あの日の犬の、怯えた瞳を、僕は、決して忘れることができないだろう。 僕は、これから、何匹の命を犠牲にすれば、僕の罪は許されるのだろうか。僕は、何のために、この研究を続けているのだろうか。僕は、ただ、答えの出ない問いを、心の中で繰り返していた。

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