第3章

教授との面談から半年が過ぎた。そして、先輩が医局を去ってからも、同じだけの月日が流れた。この半年間、僕はただひたすらに、与えられた実験をこなすことだけに集中してきた。

最初のうちは、サルの瞳を見ないようにしていた。彼らの鳴き声に耳を塞ぎ、ただの検体として、彼らを扱うことに心を麻痺させていた。そうすることでしか、僕は、この場所で、医者として、研究者として、自分を保つことができなかったからだ。

しかし、時間が経つにつれ、僕は徐々に慣れていった。サルの鳴き声は、ただの雑音になった。彼らの瞳は、感情を映さない、ただのガラス玉にしか見えなくなった。僕の心は、冷たい氷のように固まり、何の痛みも感じなくなった。

いや、痛みを感じなくなったわけではない。ただ、痛みに慣れて、それが日常の一部になっただけだ。僕は、時折、夜中に目が覚めて、自分の心臓の音が、まるで実験動物の鳴き声のように聞こえる錯覚に襲われることがあった。そんな時は、起き上がって、水を一杯飲む。そうして、この痛みが、ただの錯覚であることを、自分に言い聞かせた。

その日、僕はいつものように、実験室にいた。今日の実験は、僕がこの半年間、ずっと追い求めてきた、ある種の薬剤の効果を、サルで検証する最終段階だった。この実験が成功すれば、僕たちの研究は、新たな段階に進むことができる。

僕の目の前には、一頭のサルがいた。この半年間、僕が最も多くの時間を共にしてきたサルだ。最初は、僕に敵意をむき出しにし、狂ったように暴れていた。しかし、最近では、僕が近づいても、暴れることはなくなった。ただ、じっと僕の顔を見つめるだけだ。その瞳には、かつて僕が犬の実験に抱いたような、恐怖や悲しみは、もう映っていなかった。諦め、いや、達観したような、そんな表情だった。

僕は、そのサルに、最後の麻酔を打たなければならなかった。この麻酔を打った後は、彼は眠ったまま安楽死させる手筈になっている。その後に解剖され、標本にされるのだ。僕たちの研究は、彼らの命を犠牲にして初めて完成するものだった。僕は、震える手で注射器を手に取った。

「すまない……。」

僕は、小さな声で、サルに謝った。その声は、僕自身にも届かないほど、か細かった。サルは、僕の言葉を理解したかのように、じっと僕を見つめていた。その瞳は、僕の心の奥底を、見透かしているようだった。

僕が麻酔を打とうとすると、サルは、突然、僕に背を向けた。そして、麻酔を打つ場所であるお尻を、僕に差し出した。その行動に、僕は息をのんだ。

今まで、彼は、僕から逃げようとし、暴れ、必死に抵抗していた。しかし、今日、彼は、僕に、自分の命を、諦めという形で委ねたのだ。

僕は、麻酔を打つことができなかった。この半年間、僕が蓋をしてきた感情が、堰を切ったように溢れ出し、僕の心を揺さぶった。僕は、このサルを、ただの「検体」として見ることができなくなった。彼は、僕と同じように、生きたいと願う、一つの命だった。

「どうして……」

僕は、涙を流しながら、サルに問いかけた。しかし、サルは、何も答えない。ただ、僕に背を向けたまま、じっとしていた。その姿は、まるで、僕に、早く終わらせてくれ、と言っているようだった。

僕は、泣きながら麻酔を打った。針が彼の体に刺さる瞬間、僕は、彼が微かに震えるのを感じた。そして彼は、ゆっくりと眠りについた。

僕はその場に崩れ落ちた。僕の手に残った注射器は、まるで、僕がこの半年間、積み上げてきた罪の重さを、象徴しているようだった。

それから、僕は、一年半かけて、このサルから得られたデータを、解析し続けた。来る日も来る日も、僕は、パソコンの画面に映し出される、無機質な数字と向き合った。その数字の一つ一つが、僕の罪の重さを、僕に突きつけてくるようだった。

僕が、この研究にどれだけの命を犠牲にしてきたのか。僕は、その命と引き換えに、何を成し遂げようとしているのか。僕は、答えの出ない問いを、心の中で繰り返していた。

ある夜、僕は、教授室の扉を叩いた。教授は、いつもと変わらず、分厚い論文を読みながら、僕に顔を向けた。

「石田、何か用かね。」

僕は、震える声で、教授に問いかけた。

「先生、僕たちは、この研究で、本当に人々の命を救うことができるのでしょうか。」

教授は、僕の言葉に、わずかに眉をひそめた。

「石田、どうしたんだ。君は、もう、感傷に浸るのをやめたんじゃなかったのか。」

「やめました。でも、僕は、この研究が、本当に正しいことなのか、わからなくなりました。」

「正しいか、正しくないか、それは、結果が出なければわからない。しかし、我々は、信じるしかない。この研究が、多くの人々の命を救う、正しい道だと信じるしかない。」

教授は、そう言って、僕の肩に手を置いた。その手は、重かった。

「君は、優秀だ。この一年半、君が積み上げてきたデータは、素晴らしいものだ。君が、このまま研究を続ければ、必ず素晴らしい成果を出すことができる。」

僕は、何も言えなかった。素晴らしい成果。その成果は、僕が感情を殺し、多くの命を犠牲にして手に入れたもの。その成果を、僕は喜ぶことができるのだろうか。

僕は、教授室を出て、研究室に戻った。僕の目の前には、まだ、解析すべきデータが、山のように残っていた。僕は、そのデータと向き合い、再び、パソコンのキーボードを叩き始めた。

その夜、僕は、研究室に一人、残っていた。窓の外には、満月が輝いていた。その月明かりが、僕の顔を照らし、僕の涙を、キラキラと輝かせた。

僕は、ただ、泣いていた。この半年間、僕が殺してきた感情が、僕の心の中で、再び、息を吹き返したようだった。そして、僕は、その痛みを、もう、拒絶することはできなかった。僕は、知っていた。僕が、この研究を続ける限り、この痛みから逃れることはできない。この痛みは、僕が、医者として、研究者として、生きる限り、僕に寄り添い続けるだろう。僕は、涙を拭い、再び、パソコンの画面と向き合った。そして、僕は、心の中で、ある決意を固めた。

僕は、この研究を、最後までやり遂げる。そして、この研究で得られた成果を、人々のために、役立てる。それが、僕が、彼らにできる、唯一の償いだからだ。

僕は、もう彼らの命を、無駄にしない。彼らの命を、僕の夢のために、未来のために、役立てる。それが僕が、彼らにできる、唯一の贖罪なのだ。 僕は、一晩中キーボードを叩き続けた。その音が、僕の覚悟を固める音のように、僕の耳に響いていた。

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