第4章

一年半。それは、僕がたった一頭のサルから得られたデータを、解析し続けた期間だ。その間、僕は、自分の感情に蓋をし、ただひたすらに、目の前の数字と向き合った。その数字の一つ一つが、僕が犠牲にした命の重さを、僕に突きつけてきた。それでも、僕は、前に進むしかなかった。この研究を最後までやり遂げることが、僕が、彼らにできる唯一の償いだと思ったからだ。

そして、ついに、その成果を発表する日が来た。僕は、海外で開催された国際的な学会で、その研究成果を発表した。僕の研究は、今まで誰も解明できなかった、ある病気のメカニズムを、世界で初めて明らかにしたものだった。

発表が終わると、会場は、スタンディングオベーションに包まれた。世界のトップレベルの研究者たちが、僕の研究を絶賛した。僕は、その喝采の中に、僕が犠牲にした命たちの、魂の叫びを聞いた気がした。彼らの命は、決して無駄ではなかった。彼らの命は、今、世界中の人々の未来に繋がっている。

教授は、僕の肩を叩き静かに言った。

「石田、よくやった。君は、この世界に、大きな光をもたらした。」

僕は、何も言えなかった。ただ、教授の顔を見つめていた。その顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。しかし、僕の心の中は、喜びとは違う、複雑な感情で満たされていた。

その夜、僕はホテルの一室で、一人、窓の外を眺めていた。都会の夜景は、僕の心をさらに寂しくさせた。僕は、この素晴らしい成果を手に入れた。しかし、その代償として、僕は、あまりにも多くのものを失った。感情、そして、僕自身の魂。

僕は、もう、動物実験はしたくない。もう、これ以上、何の罪もない命を、僕たちの都合で、犠牲にはしたくない。

僕は日本に帰国して、すぐに教授に会った。その指先には、もはや迷いはなかった。

「先生、お話があります。」

僕は、まっすぐ教授の目を見て言った。

「なんだ、石田。何か問題でもあったのか。」

教授は、論文を読みながら、僕に問いかけた。その声は、いつもと変わらない、重厚で威厳に満ちたものだった。

「僕、医局を辞めます。」

僕の言葉に、教授は、論文から顔を上げ、僕をじっと見つめた。その瞳は、深淵の闇のように、僕を吸い込んでいくようだった。

「どういうことだ、石田。君はこれから、この研究をさらに発展させていく、この医局のそして日本の医療界の未来を担う人間だ。なぜ今、そんなことを言い出すんだ。」

「僕はもう、動物実験はしたくありません。」

「石田、何を言っているんだ。君は、もう感傷に浸るのをやめたんじゃなかったのか。」

「やめました。でも、僕はこの道を進むことが、もうできないんです。僕は研究者としてではなく、医者として人々に直接、貢献したいんです。」

僕は自分の心を、正直に教授に打ち明けた。教授は僕の言葉を、ただ静かに聞いていた。その表情は、僕には理解できなかった。

「……そうか。ならば、君は臨床に進むのか。」

教授は、そう言って、深いため息をついた。

「はい。臨床で、患者さん一人ひとりと向き合い、彼らの命を救いたいんです。」

教授は、何も言わずに、僕の顔をじっと見つめていた。その瞳には失望、いやそれとは違う、複雑な感情が入り混じっていた。

「わかった。君の意思を尊重しよう。」

教授は、そう言って、立ち上がった。

「しかし、君がこの医局で積み上げてきたものは、決して無駄にはならない。君は、素晴らしい研究者だった。そして、素晴らしい医者になるだろう。そのことを忘れるな。」

僕は、何も言えなかった。ただ、教授の言葉を、心に刻んだ。そして、僕は、医局を去ることを決意した。

医局を辞めた僕は、臨床の道を歩み始めた。僕は西山先輩に連絡をとり、彼が経営するクリニックに、足を運んだ。

クリニックの中は、患者でごった返していた。高齢者から子供まで、様々な患者が西山先輩の診察を待っていた。先輩は一人ひとりの患者に、丁寧にそして優しく声をかけていた。その姿は僕が知っているあの時の西山先輩とは全く違う、頼もしい医者の姿だった。

「石田、久しぶりだな。」

西山先輩は僕に気づき、笑顔で挨拶を返した。その笑顔は、僕が今まで見てきたどの笑顔よりも、清々しい笑顔だった。

「西山先輩、お久しぶりです。今日からここで働かせてもらいます。」

僕がそう言うと、先輩は嬉しそうに微笑んだ。

「もちろん、大歓迎だ。君のような優秀な医者が来てくれるなんて、心強いよ。」

僕は、先輩のクリニックで働くことになった。僕たちの仕事は、患者一人ひとりの苦痛に寄り添い彼らの命を救うことだった。僕は、その仕事に、喜びとやりがいを感じた。

ある日のことだった。僕が、患者の診察を終え、カルテを整理していると、先輩が僕に話しかけてきた。

「石田、最近の医局の連中、大変らしいな。」

「そうなんですか?」

「ああ。動物実験に使う動物の値段が、高騰しているらしい。動物愛護団体や人権団体、それからビーガン団体までもが、動物実験に反対しているからな。」

西山先輩の言葉に、僕は胸が締め付けられるようだった。僕が医局にいた頃には、考えられなかったことだった。

「動物実験は、もう時代遅れなのかもしれないな。」

西山先輩は、そう言って遠い目をした。

僕は、何も言えなかった。僕たちの研究は、多くの命を犠牲にして成り立っていた。しかし、その犠牲を誰もが認める時代は、もう終わったのかもしれない。

「それはそうと、君が研究に使ったサル、名前は付けたのかい?多分、君なら名前を付けたと思ってさ。」

西山先輩はさも当然のように、聞いてきた。僕は一瞬驚いた顔をしたが、しばらくしてから観念して静かに答えた。

「西山先輩にはかなわないな。誰にも言わないでくださいね。彼の名前は、7番ケージで飼育されていたから、『ラッキー』でした。」

僕たちの研究は、決して間違っていたわけではない。しかしその研究の陰で、多くの命が、静かに消えていった。僕はこの選択が、正しかったのかわからなくなった。僕は、あの時、医局を辞めるべきだったのか。それともあのまま、研究を続けるべきだったのか。

僕はクリニックの窓から、空を見上げた。空は、どこまでも青く、僕の心とは、あまりにもかけ離れた色をしていた。僕は心の中で、遠い日に僕が犠牲にした命たちに、静かに語りかけた。

「君たちの命は、決して無駄ではなかった。君たちの命は、今ここに、生きている。」

僕はそう信じて、この道を進むしかなかった。それが僕が、彼らにできる唯一の償いだからだ。 僕は、再び患者と向き合った。その顔には、僕が研究者だった頃にはなかった、温かい笑みが浮かんでいた。僕はこの道で、僕の人生を歩んでいこうと決意した。そしてその道は、決して一人で歩む道ではない。僕はたくさんの患者に支えられ、そしてたくさんの命を僕の手で救っていく。それが僕の、新しい使命だった。

1 2 3 4 5