第5章

先輩のクリニックで働き始めてから、数年が経った。僕は、日々の診療にやりがいを感じ、患者一人ひとりの苦痛に寄り添うことに喜びを見出していた。医局にいた頃の、あの冷たく固まった心は、少しずつ溶けていくようだった。しかし、僕の心の奥底には、あの日のサルの瞳が、そして、僕が犠牲にした多くの命の重さが、常に残っていた。

そんなある日、世界に、新種のウイルスが蔓延した。そのウイルスは、あっという間に世界を席巻し、多くの人々の命を奪っていった。僕が働いているクリニックも、連日、発熱や咳を訴える患者でごった返していた。僕たちは、マスクとフェイスシールドをつけ、来る日も来る日も、患者の診察にあたった。

そして、ウイルスに対するワクチンが開発された。政府は、まず医療従事者から、ワクチンを接種することを義務付けた。僕も、例外ではなかった。

接種の日、僕は、西山先輩と共に、クリニック近くの会場に向かった。会場は、ワクチンを待つ人々でごった返していた。誰もが、不安と期待の入り混じった表情をしていた。

「石田、大丈夫か?」

西山先輩は、僕の顔を覗き込むように言った。僕の顔は、少し青ざめていたのかもしれない。

「ええ、大丈夫です」

僕は、そう答えたが、心の中では、不安でいっぱいだった。僕たちの研究は、多くの動物の命を犠牲にして、新しい治療法や薬を生み出してきた。しかし、このワクチンは、今までとは違う。何十万、何百万という人々に、一斉に投与される。もし、このワクチンに、僕たちが知らない、致命的な副作用があったとしたら……。

僕の番が来て、僕は、腕をまくり、注射器が僕の腕に刺さるのを感じた。痛みは一瞬だった。しかし、僕の心の中には、得体の知れない不安が、静かに広がっていった。

その夜、僕はベッドの中で、深い眠りについた。夢の中で、僕はあの日のサルと再会した。彼は、僕をまっすぐに見つめ何も言わなかった。ただその瞳は、まるで僕に何かを訴えかけているようだった。

僕は、何かを叫びながら目が覚めた。額には、冷たい汗が滲んでいた。僕は上半身を起こし、ベッドに座り込んだ。

そして、ふと自分の髪に手をやった。何か、違和感を感じたのだ。僕は慌てて、洗面所の鏡の前に立った。鏡に映った自分の姿を見て、僕は息をのんだ。

僕の髪の半分以上が、白髪になっていた。昨日までは、真っ黒だったはずの髪が、まるで雪が降ったかのように、真っ白になっていたのだ。

僕は、自分の髪を、何度も何度も触った。幻覚か、夢か。しかしその髪は、僕の指に確かに、現実の感触を伝えてきた。僕は、鏡に映る自分を信じられずに、ただ立ち尽くしていた。

一方、その頃医局では、教授がある業者と話をしていた。教授室の扉は閉ざされ、二人の声は、廊下には漏れなかった。

「教授、今回は、かなりの金が動くことになります。」

業者はそう言って、にこやかに笑った。

「ああ、わかっている。今回のワクチンは、世界中の人々が、接種する義務を負うことになる。実験動物も、もはや我々人間になってしまった。」

教授は、そう言って、ソファーに深く腰かけた。

「しかし、このワクチンの性質上、最終的な結果が出るのは、子供たちの世代だ。」

「はい。今回のワクチンは、遺伝子を組み換えるタイプですから。」

「まさか、君たち製薬会社の人間も、このワクチンを打つわけじゃないだろうな。」

教授はそう言って、高らかに笑った。

「とんでもない。私どもはこんなもの、絶対に打ちませんよ。」

業者は、教授に追従するように、笑った。二人は、テレビをつけた。テレビの中では、ワクチン接種のために、こぞって長い行列を作る人々が映し出されていた。

「こりゃあ、踊ってるのか、踊らされているのか、分からねーな。」

教授はそう言って、さらに高笑いした。

「本当に、教授がおっしゃる通りですよ。まさか、自分で自分の首を絞めていることに、気づかないとは。」

業者のその言葉を聞いて、教授は天井を見上げた。

「私は来週から教授を引退して、この大学の理事長になる。もう医療職は引退だ。このワクチンを打つ義務もない。せいぜい彼らが、このワクチンで、幸せになれることを願うとしよう。」

教授はそう言って、テレビの中の人々を、興味が無さそうな冷たい眼差しで見つめていた。その瞳は、真っ黒で底知れない光を放っていた。

「理事長、今回の件は理事長のおかげで、我々もかなりの利益を上げることができました。本当に感謝しております。」

「感謝するなら、今度、もっと良い話を持ってこい。」

教授はそう言って、豪快に笑った。その笑い声は石田が医局にいた頃の、どの笑い声よりも大きかった。

僕の白髪が増えてから、二週間が経った。僕は、以前より、体が疲れやすくなったような気がした。朝起きると体がだるく、まるで重い鉛を背負っているようだった。

それでも僕は、患者を救うために、何より僕が奪ってしまったサルの命のために、ひたすら他人を助けるために頑張った。

僕は毎日クリニックで、患者の診察にあたった。彼らの顔には、僕と同じように、不安と希望が入り混じっていた。

「石田先生、ありがとう。」

ある日、僕が診察を終えた高齢の患者が、僕に深々と頭を下げた。

僕は、自分の選択が間違っていなかったと信じている。この道が、僕が彼らにできる、唯一の償いの道だと信じている。僕は今日も、明日も、明後日も、患者を救うためにこの手で命を輝かせていく。それが僕にできる、唯一のことなのだから。 僕はそう自分に言い聞かせ、再び患者と向き合った。

そして、その顔には僕が医局にいた頃にはなかった、笑みが浮かんでいた。この場所で、僕は自分の人生を歩んでいく。多くの患者に支えられ、僕のこの手でたくさんの命を救っていくこと。それこそが、僕の新しい使命なのだ。

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