第1章
僕の名前は丸尾公彦。京大工学部出身、学生時代は皆から親しみを込めて丸ハムと呼ばれていた。姓の「丸」、名の「公」を分解してハム。なんとも間が抜けた響きだが、僕はその愛称を気に入っていた。
それは、愛称を付与される人生の方が、誰からも関心を持たれない孤独な人生よりも、遥かに恵まれていることを僕は知っていたからだ。
僕の人生は、何一つ不自由なく、順風満帆に流れていた。それは、僕自身のまん丸い肉体のように、欠陥のない、運動以外は完璧な毎日を過ごしていた。
そんな中、大学の研究室で、ドイツからの留学生だった妻のエマに巡り合った。彼女の日本での生活を手助けしていくうちに、僕もエマも自然に恋に落ちた。「ねえ、丸ハム。あなたって、本当に美味しそうに食べるのね。まるで、この世の全ての料理を味わい尽くしているみたいだわ。」
エマは、いつもそう言って僕に微笑みかけてくれた。彼女の蜂蜜色の髪と、空のように澄んだ青い瞳に、僕は一瞬で心を奪われた。彼女は、僕の全てを肯定してくれる、この世で唯一の存在になった。
エマは毎日、僕を「愛しの丸ハム」と呼び、僕が食事をする姿を眺めるのがたまらなく幸せだと言ってくれ、彼女が作る素朴でありながら奥深いドイツの郷土料理のカルトッフェルズッペ(ジャガイモのスープ)の味も、僕は心から愛していた。
卒業後、僕は大手企業に入社し、ヨーロッパに赴任した。エリートコースを順調に歩み、海外主任として多忙を極める日々を送っていた。
僕たちは彼女の両親に大反対されたが、彼女の父親の前で5人前のカルトッフェルズッペをペロリと食べて、なんとか結婚の許しをえた。そうして国境を超える大恋愛の末に結婚し、やがて二人の双子の息子、ヤンとハンスを授かった。彼らが生まれたその日から、彼らは僕の人生の全てになった。
しかし、平穏な世界というものは、常に脆く、儚い。それは、精巧なガラス細工のように、ほんの些細な衝撃で粉々に砕け散ってしまうことも僕は知っていた。
当時、海外主任として僕が携わっていたのは、世界的な軍事システムの開発と管理だった。ミサイルや衛星のセキュリティを強化し、戦争の抑止力となるための極めて重要な任務だ。
だが、その仕事の深奥で、僕は恐るべき陰謀の兆候を掴んだ。世界中のミサイルや軍事システムのセキュリティに対して、社内の特別な閲覧システムでチェックしていた時に偶然見つけたプログラムがあったのだ。それは単なるサイバーテロではなく、軍事システムのバックドアに、最初から特定のプログラムを仕込むことで、最終的には世界中のミサイルを同時に発射させるという、狂気じみた計画だったのだ。
それはまるで世界を滅亡させるための、最初から仕掛けられていた壮大なパズルだった。さらにそのプログラムを書き換えようとすると、自動的に最終プログラムが発動するだけではなく、セキュリティが一斉に解除され、全てのハッカーの突破が容易になるという危険なものだった。
僕は、その計画を阻止すべく、必死に情報を収集し、あらゆる伝手を頼りながら、会社の人間の説得を続けた。しかし、僕の周囲に、この由々しき事態を信じてくれる者は一人もいなかった。
「丸尾君、君の言っていることは、まるでSF映画のようだ。もう少し現実を直視したらどうだ?君は働きすぎだ。家族とゆっくり過ごしたまえ。」
会社の直属の上司は、そう言って僕を嘲笑うだけだった。僕が掴んだ情報は、あまりにも常軌を逸しており、誰もが非現実的な妄想だと切り捨てた。だが、僕は、この情報が紛れもない真実であることを確信していた。そして、僕は、一つの決断を下した。
僕は、勤めた会社を辞め、ナノリサイクルシステムという革新的な技術を持つベンチャー企業に転職した。僕はそこの会社に転職するとすぐに上司や経営陣に、この技術を核シェルターと融合させ、来るべき日に備えようと直訴した。
試作品が何とか作られたが、一般向けに販売するにはまだまだ高額過ぎた。そしてそこでも僕は、利益を追求する経営陣という名の壁に阻まれた。彼らは、僕の核シェルターを大量生産する提案を一笑に付した。
「丸尾君、君のプランはあまりにも非現実的だ。核シェルターなど、いつ需要が生まれるか分からない。それよりも、この技術を化粧品に応用すれば、莫大な利益を生み出せる。君は優秀な技術者だ。もっと現実的な視点を持つべきだ。」
結局彼らは、僕のアイデアを金儲けの道具としか見ていなかったのだ。僕は、彼らの言葉に深い絶望を覚えた。僕が持つ知識と技術は、彼らにとっては単なる収益を上げるための一つの手段でしかなかったのだ。
結局、僕は会社を追われる形で日本に帰国させられた。家族と共に、栃木の山奥にある小さな借家に住むことになった。核シェルターの販売員として働く、という名目で。それは、僕にとって、人生の終わりを意味しているように感じられた。エリートとしての地位を失い、僕はますます、丸く肥えた中年男になった。
だが、エマは、そんな僕を責めることは一切なかった。
「パパ、良かったじゃない。これで、あなたとたくさん一緒にいられるわ。息子たちも、きっと喜ぶわよ。」
エマは、僕に微笑みかけてくれた。僕は、彼女の曇りのない笑顔を見て、ようやく悟った。僕が本当に求めていたものは、地位や名誉でも人類の救済でもなかった。エマと、ヤンとハンス。愛する家族と、ただ共に在ること。それだけで、僕の心は満たされた。
毎日の夕食は、エマが作るドイツ料理、そして週に一回はカルトッフェルズッペ。温かく、優しく、そして深い味わい。それは、彼女の心そのものだった。食事の後、ヤンとハンスと、庭でサッカーに興じる。彼らの無邪気な笑顔は、僕の心の傷を癒してくれた。
日が沈み、月が夜空に姿を現す頃、僕は「残業」と称して、家の裏山の小屋で作業をしていた。エマは何も聞かずに、「無理しないでね。」と優しい言葉をかけてくれる。彼女の言葉に、僕はいつも勇気付けられてきた。
裏山に入ると、僕は懐中電灯の光を頼りに、人目を避けるように作業を続けていた。僕は同じ会社の同志たちと一緒に重機を借りて土を掘り、コンクリートを運び、巨大な地下室を建設していた。それは、家族に内緒で進めている、秘密の計画だった。
「ごめんよ、エマ。君には、まだ明かせないんだ。だが、この計画は、君たちを守るために、どうしても必要なことなんだ。」
僕は、心の中でそう呟き、黙々と作業を続けた。それは、愛する家族を守るための、僕にしかできない、唯一の道だった。
何度も言うが平穏な世界というものは、常に脆く、儚い。僕は、夜な夜な遠い空に輝く星を見上げながら、そう考えていた。そして、その星々が、僕たちの未来を、静かに見守っているようだった。